豊島ミホという小説家が、いた。
いた、と過去形なのは、豊島ミホがデビューから6年後の2008年に「休業宣言」として、「小説家を休業する(辞める)」と誌上で公言したからだ。
普通小説家というのは「いつの間にか作品を出さずに消えている」ことがほとんどなので、豊島ミホのようなケースは珍しい。
豊島ミホの小説を構成する4つのテーマ
その前に、まず簡単に豊島ミホ作品で頻出するテーマをまとめておこう。憂鬱
豊島ミホの小説の根底に流れるのは「憂鬱(メランコリー)」である。豊島ミホ作品の登場人物(特に主人公)は、みな「憂鬱」である。決して「不幸」だったり「絶望」的な状況というわけではない。豊島ミホ作品の主人公は基本的に、特殊な生い立ちや能力は持っていない、いたって普通で平凡な一市民である。
しかし、はっきりとはしないものの、みな確かな「不安」を抱えている。
気分が晴れず、明るい前向きな気分になれない。日々を普通に過ごしていても、なにか自分が世界と上手く噛み合っていないような不安や焦燥に駆られる。自分はもっと違う素敵な存在になれるはずなのに、現実は冴えない同じ日々の繰り返し、でもそこから抜け出す方法も力も無い――。
そんな憂鬱が、豊島作品の底には常に流れている。
これは明らかに作者の高校時代の経験からだと思われる。
『底辺女子高生』や『リベンジマニュアル』で詳細に語られている通り、作者は高校2年生のときにクラスに馴染めず、絶望的な自意識に耐えかねて家出を決行、その後帰ってきてからは卒業まで保健室登校の日々を送ることになる。
高校二年の春。
ここが私の人生で、一番悪い節目であることは今も変わりありません。
二年生になって初めて、教室のドアをくぐり、新しいクラスのメンバーを見渡した時の「あ、やばい」という危機感はよく憶えています。
おしゃれできれいで、なおかつものすごく気の強そうな女の子たちが窓際で声を立てて笑っている。そこまで垢抜けていない子も、なんだか地顔がかわいいめの子が多い。ひょっとしてひょっとすると……私がこのクラスで一番、さえない女なんじゃないだろうか?
その時私は、まだ何も始まっていはいないのに、そして、一年から同じクラスだった友だちを隣に連れているのに、「もうだめだ」と思いました。
(『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』7頁)
モラトリアム
豊島ミホの小説では、モラトリアム、すなわち学生なのに学校に行ってなかったり、学生じゃないのに働いてなかったりする、「義務を放棄した」状況が舞台になることも多い。初期の傑作『陽の子雨の子』が代表的で、主人公の一人である雪枝は24歳という若さだが祖母の遺産を相続しているため、ろくに働く必要もなく日々を送っており「学生じゃないのに働かなくても良い」境遇であり、もう一人の主人公である聡は15歳で家出して雪枝に拾われ、その後4年間も同居しているという特異な設定で「学生の年齢なのに学校に行っていない」やはりモラトリアムな境遇である。
そもそもデビュー作「青空チェリー」は予備校生という至ってモラトリアムな立ち位置の少女が主人公だし、学生が主人公の場合は「夏休み」が擬似的なモラトリアムとして舞台になることが多い。
初期作「ハニィ、空が灼けてるよ。」は首都の大学に通う主人公が夏休みに田舎の実家に帰るところから話がはじまるし、「入道雲が消えないように」「サマバケ96」「どこまで行けるか言わないで」など夏休みをメインテーマにした短編だけでも数多い。
『底辺女子高生』でも「夏休みが大好きだ。」とダイレクトに主張しているし、そもそもデビュー作「青空チェリー」は作者が大学一年生の夏休みに執筆された、という事実はなんだか感慨深い。
また、例えば「日傘のお兄さん」は「ロリコン」の「お兄さん」に女子中学生の主人公が自ら望んで「誘拐」される……という倒錯的・退廃的な逃避行を描いた初期作だが、これも見方によれば「普通の社会生活」から切り離された身に堕ちたい、というモラトリアム(破滅)願望の一種とも言える。
田舎
豊島ミホは秋田県出身である。(行ったことが無いのでよくわからないが、)「田舎」らしい。「田舎」に対する作者のスタンスは、両義的である。初期作「ハニィ、空が灼けてるよ。」ではこんな主人公のモノローグがある。
この、小さな町が嫌いだった。制服を着て学校に通っている頃からずっと。
(中略)
だから私はここを出て、東京の大学に入った。私は流される方の人間になんかならない。状況を動かすことのできる、大きな流れも変えることができる、ちゃんとした人間になるんだ。ちっぽけなあんたたちとは違う。――そう思った。
(『青空チェリー』文庫版71頁)
自分が幼い頃から何も変わっていない「田舎」の風景。そんな「田舎」を見ていると、自分まで何も変わっていないような気分になってしまう。
みんなが「低い」ものに見てるこの私は本来のものじゃなくて、そう、私もっと違う子のはず! ちゃんと休み時間には女子の輪のまんなかで笑ってて、男子とも気軽に話せるはずなんだもん!(その四月中、私はいっぺんも男子と口をきいていなかった。)
――ここにいる私は私じゃないので、どこか別の場所に行ってもとの私にもどらねばならない!
(『底辺女子高生』36頁)
これは作者が高校時代に結構した「家出」の理由だが、まさにこのような「新しい自分になりたい」という欲求、「今の自分は本当の自分ではない」というフラストレーション、「まったく新しい、素晴らしい世界がここではないどこかにある」という無根拠な希望、その元になる「捨て去りたい自分」の象徴が「田舎」である。
幼馴染
とはいえ、「田舎」は悪いことばかりではない。「変わってない」ことにうんざりしながらも、慣れ親しんだ風景への安心も感じる。都会のように人が冷たいこともなく、周りは見知った人と風景ばかり。そんな「過去」へのポジティブなイメージの象徴が「幼馴染」だ。
「幼馴染」は作者にとっても特別なこだわりがあるようで、『エバーグリーン』や『夏が君を抱く』は「幼馴染」がメインテーマとして重要な概念になっているし、前述の「ハニィ」も男女の幼馴染が主人公である。
それはきっと、私がひとりだったからだろう。自分をひとりじゃなくしてくれる誰かを、ずっとどこかで待っていたからだろう。
(『夏が君を抱く』文庫版あとがき)
幼少期から長い時間を共に過ごし、お互いのことを理解し、受け入れあっている異性の存在。友達よりもずっと親しく特別だが、家族ほどは近すぎない。手の届かない憧れではなく、ちょっと冴えないけど、一緒にいて安心できる馴染みのある存在。そんな「男女の幼馴染」が、豊島ミホの小説では一種の理想として提示されている。
全作感想
先に個人的な好みでオススメを上げると、
総合的に一番好きなのは『神田川デイズ』
短編集として一番面白いのは『夏が僕を抱く』
連作短編集として一番完成度が高いのは『夜の朝顔』
豊島ミホらしさが一番出てるのは『花が咲く頃いた君と』
荒削りだけど一番感傷的なのは『陽の子雨の子』
という感じである。豊島ミホ作品でどれを読むのか迷ったら、上の5作品が特に完成度が高くオススメである。
青空チェリー
デビュー単行本。作者はもともと少女漫画家志望だったが、大学1年生の夏休みにネットで見かけた「女による女のためのR-18文学賞」という出来たばかりの賞に軽い気持ちで応募して「読者賞」を受賞しデビューしたという経緯がある。
そのデビュー作「青空チェリー」は、「女性による性」がテーマの賞だったこともあってか、全編通してかなり大胆な性描写に満ちている。後の作品では性が露骨に描かれることは少なく、初期作らしい大胆さと言える。
もっともストーリー自体は「予備校の屋上からラブホテルを覗く女子が、同じく覗きが趣味の男子と出会う」というもので、2人は「覗き趣味」を共有する似た者同士であり、その意味では「幼馴染」というわけではないものの、「似た価値観の相手と一緒にいるのが良い」というテーマは後の作品とも一貫する。
「なさけないこころ」は「中学時代の同級生への執着を捨てきれない」女子が描かれる。こういった「過去の思い出への執着」も豊島作品に頻出するモチーフである。
ちなみに文庫版では「なさけないこころ」は収録されておらず、代わりに「誓いじゃないけど僕は思った」という、やはり中学時代の片思いの相手のことを忘れられない男子の話(※同じ話の視点反転版というわけではない)になっている。
「ハニィ、空が灼けてるよ。」はすでに何度か具体例として挙げた通り、「都会に出て田舎に戻ってきた主人公の鬱屈」「戦時下という設定に託された登場人物の不安と憂鬱」「幼馴染の男女のモラトリアム」と、豊島ミホ作品の主要なテーマがおよそすべて詰まっている。豊島作品の原点と言って良いかもしれない。
こちらも文庫版では全面的に改稿されており、今から読むなら文庫版がオススメである。
日傘のお兄さん
大学在学中に刊行された2冊目の単行本。前後作と比べると、比較的「豊島ミホらしい」落ち着いた作風の短編が揃っている。
「バイバイ、ラジオスター」と「あわになる」は「過去(の恋愛)への執着」、「すこやかなのぞみ」は「幼馴染」、「日傘のお兄さん」と「猫のように」は「社会に適合できないモラトリアム(への罪悪感)」という、後に繰り返し描かれることになる主要なテーマが見られる。
なおこちらも文庫版で書き直された作品が多く、特に「バイバイ、ラジオスター」は「ハローラジオスター」と改題され、「昔付き合っていた男子の声がラジオから聴こえてくる」という大筋は同じだが、主人公が「ド田舎の大学に進学してしまった遊び人のギャル」になっており、はじめは日々の退屈と憂鬱を振り払おうと精一杯遊び呆けようとするが、就職活動という「現実」を前に辛い挫折を味わう、という苦いエピソードになっている。後の『神田川デイズ』と比べて読むと、また味わい深い。
表題作の「ブルースノウ・ワルツ」はゴシック・ファンタジー的な雰囲気の独特の世界観で、「弟」として家族になった「野生児」のユキを巡る物語……という異色の作風。
設定や世界観構築には初期作品らしいぎこちなさもあるが、楓という少女の視線から語られる等身大の描写はしっかり豊島ミホらしい。
一方「グラジオラス」は、死んだはずの片思いの相手を忘れられず、イマジナリーフレンドとして彼を空想の中で活かし続ける少女……という前2作でも繰り返し語られたテーマであり、作者の「執着」に対する「執着」が見て取れる。
作者自身の経験をモデルとした、田舎の高校を舞台とした連作短編。本作の刊行は2005年3月で、これは作者が大学を卒業するのと同時である。
映画化もされた豊島ミホの「代表作」であり、これ以降「学生を主人公とした群像劇」が豊島ミホの作風としてははっきり固まった記念すべき一作である……というのが一般的な評価だが、しかし後になって『リベンジマニュアル』で明かされたところによると、この作品の裏には知られざる葛藤があったようだ。
この小説で描かれる人々は、確かに基本的には「冴えない」側の人々である。
作者自身をモデルにした保健室登校の女子、幼なじみに執着しながら振り向いてもらえない野球部の男子、司法浪人中の青年、クラスに馴染めずルサンチマンをたぎらせる女子……。
だが一方で、本作のメインテーマはそういった人々の苦しみや絶望を描くこと……では無い。
「『檸檬のころ』は、地味な高校生活から、あくまできらきらしたところを掬うというコンセプト」(『底辺女子高生』あとがき)と作者が語っている通り、本作の全体的なトーンはそれほど重苦しくない。
保健室登校のサトは(現実とは異なり)担任の助力であっさりと教室に復帰してしまうし、「クラスメイトを多少憎んでいる主人公の話もありますが、その憎しみはふんわりとした片思いと入れ替わりにどこかへ行ってしまいます。」(『リベンジマニュアル』98頁)。
作者の「地獄の高校生活」を、「檸檬」のさわやかで甘酸っぱい香りで「消臭」したこの一冊が「代表作」として扱われているというのは、なんとも皮肉な話である。
24歳でモラトリアムな日々を送っている雪枝と、4年前から彼女と同居している19歳の家出少年・聡。そんな2人の生活に、中学2年生の男子・夕陽が思わぬ形で入り込み……というのがあらすじ。
正直な所、設定にはやや初期作品らしい強引さを感じる。当時中学生の男子が20歳そこそこの女性に拾われ、平気で何年も一緒に暮らしている……というのはどうしてもリアリティに欠ける点が否めない。
なおこちらも文庫版で書き直された作品が多く、特に「バイバイ、ラジオスター」は「ハローラジオスター」と改題され、「昔付き合っていた男子の声がラジオから聴こえてくる」という大筋は同じだが、主人公が「ド田舎の大学に進学してしまった遊び人のギャル」になっており、はじめは日々の退屈と憂鬱を振り払おうと精一杯遊び呆けようとするが、就職活動という「現実」を前に辛い挫折を味わう、という苦いエピソードになっている。後の『神田川デイズ』と比べて読むと、また味わい深い。
ブルースノウ・ワルツ
表題作の「ブルースノウ・ワルツ」はゴシック・ファンタジー的な雰囲気の独特の世界観で、「弟」として家族になった「野生児」のユキを巡る物語……という異色の作風。
設定や世界観構築には初期作品らしいぎこちなさもあるが、楓という少女の視線から語られる等身大の描写はしっかり豊島ミホらしい。
一方「グラジオラス」は、死んだはずの片思いの相手を忘れられず、イマジナリーフレンドとして彼を空想の中で活かし続ける少女……という前2作でも繰り返し語られたテーマであり、作者の「執着」に対する「執着」が見て取れる。
檸檬のころ
作者自身の経験をモデルとした、田舎の高校を舞台とした連作短編。本作の刊行は2005年3月で、これは作者が大学を卒業するのと同時である。
映画化もされた豊島ミホの「代表作」であり、これ以降「学生を主人公とした群像劇」が豊島ミホの作風としてははっきり固まった記念すべき一作である……というのが一般的な評価だが、しかし後になって『リベンジマニュアル』で明かされたところによると、この作品の裏には知られざる葛藤があったようだ。
この小説で描かれる人々は、確かに基本的には「冴えない」側の人々である。
作者自身をモデルにした保健室登校の女子、幼なじみに執着しながら振り向いてもらえない野球部の男子、司法浪人中の青年、クラスに馴染めずルサンチマンをたぎらせる女子……。
だが一方で、本作のメインテーマはそういった人々の苦しみや絶望を描くこと……では無い。
「『檸檬のころ』は、地味な高校生活から、あくまできらきらしたところを掬うというコンセプト」(『底辺女子高生』あとがき)と作者が語っている通り、本作の全体的なトーンはそれほど重苦しくない。
保健室登校のサトは(現実とは異なり)担任の助力であっさりと教室に復帰してしまうし、「クラスメイトを多少憎んでいる主人公の話もありますが、その憎しみはふんわりとした片思いと入れ替わりにどこかへ行ってしまいます。」(『リベンジマニュアル』98頁)。
読み手には、私が地獄の高校生活を過ごしたことなど、まったく思い当たらないように全編を書き切りました。
理由は「そんなこと書いたって売れないから」。みんなが読みたいのは、私の苦しみじゃない。私なんかの、辛かった話じゃない。そう判断したのでした。売り物は、あくまでも「いい思い出」だけ。
とはいえ最後の一編を書き始める時、迷ったことを覚えています。これで本当にいいのか。最後に、保健室の子を主人公にした一編を持ってきてもいいんじゃないか? 一編ぐらい、「私自身の話」があってもいいんじゃないのか……。
――いや、でも「私なんか」の話じゃだめだ。もっと華のある話で一冊を締めないと。
最終的に、その迷いは切り落とし、私は思い切って、自分から一番遠いタイプの子を主人公に据えました。頭が良くて顔もきれいで、でも権力欲はないから中堅グループにいる女の子――別に教室内でのポジションが重要になるお話ではないのですが――の、恋と上京の話です。「上京のほうに思いを入れ込み、「恋」は完全に創作として書き上げました。
その判断が、結局、私の人生を変えました。映画化の話をいただいたのです。短編集ですから、どこか一本にメインを置くわけですが、そのメインは例の「最後の一編」でした。
(『リベンジマニュアル』98頁)
作者の「地獄の高校生活」を、「檸檬」のさわやかで甘酸っぱい香りで「消臭」したこの一冊が「代表作」として扱われているというのは、なんとも皮肉な話である。
陽の子雨の子
24歳でモラトリアムな日々を送っている雪枝と、4年前から彼女と同居している19歳の家出少年・聡。そんな2人の生活に、中学2年生の男子・夕陽が思わぬ形で入り込み……というのがあらすじ。
正直な所、設定にはやや初期作品らしい強引さを感じる。当時中学生の男子が20歳そこそこの女性に拾われ、平気で何年も一緒に暮らしている……というのはどうしてもリアリティに欠ける点が否めない。
一方で、本作は豊島ミホらしいエモーションが強烈に詰まった作品でもある。
雪枝は若くして働く必要がなく、しかしそれゆえ自分と社会との距離が掴めずに果てのないモラトリアムを過ごしている。聡は、世間的には「雪枝のヒモ」だが実際には「何者でもない」アイデンティティを持てない存在である。
そして夕陽は、そんな閉鎖的な場所に行き詰まった2人と接することで、静かに、しかし確かに精神的な成長を果たしていく。そんな3人の歪で静謐な関係が、梅雨から夏にかけての季節に載せて、極めて感傷的に描かれる。
雪枝は若くして働く必要がなく、しかしそれゆえ自分と社会との距離が掴めずに果てのないモラトリアムを過ごしている。聡は、世間的には「雪枝のヒモ」だが実際には「何者でもない」アイデンティティを持てない存在である。
そして夕陽は、そんな閉鎖的な場所に行き詰まった2人と接することで、静かに、しかし確かに精神的な成長を果たしていく。そんな3人の歪で静謐な関係が、梅雨から夏にかけての季節に載せて、極めて感傷的に描かれる。
荒削りではあるが、豊島ミホの感傷的な筆致が最も出ている作品である。梅雨の時期に、ぜひ触れてみて欲しい。
田舎で生まれ育った小学生の少女・センリが過ごす6年間を描いた連作短編。
とあとがきもあるように、作者は「過去の記憶」に対して強いこだわりがあり、他の作品でも、シーンの合間に記憶がフラッシュバックして過去のエピソードが語られるという展開が多い。
そんな作者の「過去」「幼少期の記憶」に対する執着が、本作では小学生から見た世界の描写に見事に活かされている。
初期作品にあった突飛な舞台設定を捨て、「普通の田舎」を舞台にしながらも、そこで描かれるエピソードはどれも極めて印象的であり、舞台となる田舎の描写は――田舎で生まれ育っていない読者にとっても――強い郷愁を生む。
一冊を通じて、センリ自身には大きな変化や転換は起こらない。あくまでセンリは(まだ)世界を「見る」だけの存在である。しかしこの「記憶」こそがやがてセンリという人間を形成する大切な「過去」となるのだ。
漫画家を目指して上京しデビューを果たす少女アヤコと、その幼馴染でミュージシャン志望だったが、挫折して結局田舎の地元でサラリーマンをしている青年シン、「夢と現実」をテーマにした苦い物語である。
漫画家としてのアヤコのエピソードは作者自身の作家生活が反映されており、また結果として作者自身もシンのように「夢破れて地元に戻る」ことになるあたり、作者自身の未来を予言していたかのような内容である。
自身の高校時代を語ったエッセイ集。
豊島ミホのバックボーンを知る上で重要な一冊だが、それを抜きにしても単純にエッセイ集としてとても面白い。作者の「印象的なエピソード」に対する記憶力と執着が、自虐的なユーモアと相性良くマッチしている。
一見華やかで爽やかな青春を送る「頂点」の影で、表立って語られることはない「底辺」な存在がいると示したこと、そして彼女/彼らの本音を赤裸々に代弁したことは、大きな意味があったと思う。自分が「底辺」だと感じている現役高校生たちに、ずっと読み継がれて欲しい。
同じ大学に通う学生たちを描いた連作短編。
しかし牧歌的なタイトルや表紙に反して、本作は豊島ミホ作品の中でも最も深い「憂鬱」を抉った一冊であり、その意味で『檸檬のころ』と対になる重要な存在である。
『神田川デイズ』の主人公たちは、みな青春のどん詰まりとでも言うべき、暗い川の底に沈んでいる。
冒頭に出てくるモテない男子大学生トリオはまだマシな部類で、田舎から出てきた対人恐怖症気味の少女、「明るい青春」を送りたいと思いながらも周囲と馴染めない男子、自主映画を撮ろうとするも挫折する女子、友達が一人もできなかった女子、そして売れない大学生作家……と話が進むに連れて主人公の絶望と苦しみはより深刻になっていく。
ここには『檸檬のころ』にあった遠慮や欺瞞はなく、主人公たちはみな「地獄の学生生活」を送った作者自身として描かれているのだ。
主人公たちに共通するのは「別の自分になりたい」という朧気な願望である。なぜなら、今の自分はあまりに惨めで苦しく、憂鬱だからだ。
こんなはずはない、青春は、人生はもっと明るくて楽しいもののはずだ。自分の意志と努力で「明るく楽しい」青春を実現することができるはずだ、と泥沼の中で彼女/彼らは足掻くが、現実の壁に跳ね返される。その姿が、あまりに切なく、苦しい。
もっとも、物語的な配慮というべきか、主人公たちは足掻いた結果、なんらかの「報酬」を手に入れている。男子大学生トリオはお笑いグループとして学内で一定の地位を占めることができたし、首尾よく恋人をゲットして「めでたしめでたし」なキャラクターもいる。
しかしその裏で、最後まで「別の自分」になれなかった人物もいる。
「どこまで行けるか言わないで」で映画作りを挫折した語り手の香純。各エピソードに横断的に登場し、誰よりも軽やかに「明るい青春」を送っているようで、実はもっとも深い憂鬱に囚われていた星子。そしてなにより「売れなくても小説を書き続ける」と決心した最終話の主人公。
彼のペンネームは「生島タカオ」。……明らかに「豊島ミホ」の分身である。「豊島ミホ」が小説家であることを辞めたという事実を知ってから「花束になんかなりたくない」を読むと、とても強い感傷に襲われるのである。間違いなく豊島ミホの最高傑作の一つだろう。
「人形への恋」をテーマにした短編集だが、他の傑作と比べるとやや印象の薄さが否めない。これはおそらく「人形に恋する」という心理を、「神秘的な感情」としておごそかに扱いすぎているからではないかと思う。
やはり豊島ミホは非神秘的で身も蓋もないような「現実」の「日常」における鬱屈や挫折を描く際に光るのだ。
夜の朝顔
田舎で生まれ育った小学生の少女・センリが過ごす6年間を描いた連作短編。
「小学六年間の遠足の行き先は?」
と訊いて、答えられる人が少ないことに最近びっくりしてしまいました。あの、年に一度のビッグイベントである遠足を、人は二十五やそこらで忘れてしまうものなんでしょうか。
(『夜の朝顔』あとがき)
とあとがきもあるように、作者は「過去の記憶」に対して強いこだわりがあり、他の作品でも、シーンの合間に記憶がフラッシュバックして過去のエピソードが語られるという展開が多い。
そんな作者の「過去」「幼少期の記憶」に対する執着が、本作では小学生から見た世界の描写に見事に活かされている。
初期作品にあった突飛な舞台設定を捨て、「普通の田舎」を舞台にしながらも、そこで描かれるエピソードはどれも極めて印象的であり、舞台となる田舎の描写は――田舎で生まれ育っていない読者にとっても――強い郷愁を生む。
一冊を通じて、センリ自身には大きな変化や転換は起こらない。あくまでセンリは(まだ)世界を「見る」だけの存在である。しかしこの「記憶」こそがやがてセンリという人間を形成する大切な「過去」となるのだ。
エバーグリーン
漫画家を目指して上京しデビューを果たす少女アヤコと、その幼馴染でミュージシャン志望だったが、挫折して結局田舎の地元でサラリーマンをしている青年シン、「夢と現実」をテーマにした苦い物語である。
漫画家としてのアヤコのエピソードは作者自身の作家生活が反映されており、また結果として作者自身もシンのように「夢破れて地元に戻る」ことになるあたり、作者自身の未来を予言していたかのような内容である。
底辺女子高生
自身の高校時代を語ったエッセイ集。
豊島ミホのバックボーンを知る上で重要な一冊だが、それを抜きにしても単純にエッセイ集としてとても面白い。作者の「印象的なエピソード」に対する記憶力と執着が、自虐的なユーモアと相性良くマッチしている。
一見華やかで爽やかな青春を送る「頂点」の影で、表立って語られることはない「底辺」な存在がいると示したこと、そして彼女/彼らの本音を赤裸々に代弁したことは、大きな意味があったと思う。自分が「底辺」だと感じている現役高校生たちに、ずっと読み継がれて欲しい。
神田川デイズ
同じ大学に通う学生たちを描いた連作短編。
しかし牧歌的なタイトルや表紙に反して、本作は豊島ミホ作品の中でも最も深い「憂鬱」を抉った一冊であり、その意味で『檸檬のころ』と対になる重要な存在である。
『神田川デイズ』の主人公たちは、みな青春のどん詰まりとでも言うべき、暗い川の底に沈んでいる。
冒頭に出てくるモテない男子大学生トリオはまだマシな部類で、田舎から出てきた対人恐怖症気味の少女、「明るい青春」を送りたいと思いながらも周囲と馴染めない男子、自主映画を撮ろうとするも挫折する女子、友達が一人もできなかった女子、そして売れない大学生作家……と話が進むに連れて主人公の絶望と苦しみはより深刻になっていく。
ここには『檸檬のころ』にあった遠慮や欺瞞はなく、主人公たちはみな「地獄の学生生活」を送った作者自身として描かれているのだ。
主人公たちに共通するのは「別の自分になりたい」という朧気な願望である。なぜなら、今の自分はあまりに惨めで苦しく、憂鬱だからだ。
こんなはずはない、青春は、人生はもっと明るくて楽しいもののはずだ。自分の意志と努力で「明るく楽しい」青春を実現することができるはずだ、と泥沼の中で彼女/彼らは足掻くが、現実の壁に跳ね返される。その姿が、あまりに切なく、苦しい。
もっとも、物語的な配慮というべきか、主人公たちは足掻いた結果、なんらかの「報酬」を手に入れている。男子大学生トリオはお笑いグループとして学内で一定の地位を占めることができたし、首尾よく恋人をゲットして「めでたしめでたし」なキャラクターもいる。
しかしその裏で、最後まで「別の自分」になれなかった人物もいる。
「どこまで行けるか言わないで」で映画作りを挫折した語り手の香純。各エピソードに横断的に登場し、誰よりも軽やかに「明るい青春」を送っているようで、実はもっとも深い憂鬱に囚われていた星子。そしてなにより「売れなくても小説を書き続ける」と決心した最終話の主人公。
彼のペンネームは「生島タカオ」。……明らかに「豊島ミホ」の分身である。「豊島ミホ」が小説家であることを辞めたという事実を知ってから「花束になんかなりたくない」を読むと、とても強い感傷に襲われるのである。間違いなく豊島ミホの最高傑作の一つだろう。
ぽろぽろドール
「人形への恋」をテーマにした短編集だが、他の傑作と比べるとやや印象の薄さが否めない。これはおそらく「人形に恋する」という心理を、「神秘的な感情」としておごそかに扱いすぎているからではないかと思う。
やはり豊島ミホは非神秘的で身も蓋もないような「現実」の「日常」における鬱屈や挫折を描く際に光るのだ。
その意味で、「手のひらの中のやわらかな星」は、「田舎出身の少女」「容姿コンプレックス」「スクールカースト間の断絶」と作者らしいテーマが描かれており、ストーリーとしては苦い終わり方だが、一種の希望も感じさせる。
東京・地震・たんぽぽ
大地震が起きた東京を舞台にした群像劇的連作短編集。
刊行は2007年なので、3.11で実際に「大地震」を経験した「後」の読者にとっては、小説の主人公がみな呑気というか牧歌的すぎるように見えるのは致し方ないところかもしれない。
リリイの籠
女子高を舞台に「2人の女の子」をテーマとした連作短編集だが、これも個人的には印象が薄い。
「対照的な女子のコンビ」というテーマが設定を類型的なものにしている感じがするし、2人にフォーカスする以上、それより広い世界を描くのが難しくなっている印象である。
花が咲く頃いた君と
四季と花をテーマにした4編が収録されているが、いずれも完成度が高い短編が揃っている。「季節」が生む「雰囲気」への感傷的なこだわりが、とてもエモーショナルにシーンとして昇華されている。
「サマバケ99」は中学生&夏休みという豊島ミホ鉄板のモチーフで、女子中学生の友情物語である以上に、今の自分達の関係や状況が仮初めのモラトリアムに過ぎない、という予感が漂っていて、切ない。
「コスモスと逃亡者」はアパートの一室で勝手に寝泊まりしているダメなオジサンと少女の交流を描く。「日傘のお兄さん」のリライト版とも言える設定で、登場人物が皆行き詰まっているあまりにも苦しく切ない話が、秋とコスモスというモチーフによってさらに感傷的に胸に響く。
「僕と桜と五つの春」は「上」の女子と「下」の男子のスクールカースト格差がテーマ。後半になるにつれ物語が苛烈に救いがない方向に進みすぎている気がするが、桜の木の下で佇む主人公たちのイメージは極めて鮮烈であり、読んでいて不安になるほどだ。傑作。
カウントダウンノベルズ
プロのミュージシャンを主人公とした連作短編。
主に学生をはじめとした「普通の人々」を描いてきた豊島ミホにとっては異色の意欲作といえる……があまり成功しているとは言い難い。
「売れっ子アーティスト」という(読者&作者からは)「別次元の存在」を、物語として扱いきれなかったという感が強い。
中学校の1クラスを描いた群像劇……というと豊島ミホの十八番に思えるが、個人的には消化不良の出来に感じる。
掲載誌の都合もあるのだろうが、1話の分量が短すぎる。キャラクターを十分に描く前にエピソードがぶつ切りに終わってしまい、キャラクター同士のインターリンクといった「背景」を楽しんだり想像する余地が無かったのが残念である。
「性と田舎」がテーマの短編集。
『リベンジマニュアル』によれば、作者はもともと「明るくて気楽に読める官能小説」を書きたいという志望があったが、実現できなかった(それに対する無力感も休業の一因でもある)という経緯があり、その意味で「休業宣言」後に最初に出た本作で、「ずっとやりたかったこと」を初めてテーマにできた……というのは皮肉な話かもしれない。
内容は「青空チェリー」に比べて文体も内容も遥かに落ち着き、しっとりとしていて「大人」である。が、『ぽろぽろドール』と同じく性愛を「神秘的なもの」にしすぎているきらいがある。
豊島ミホのオブセッションである「幼馴染」がテーマなだけあって、どのエピソードも面白い。傑作である。
短編集だが、物語の構造は6編とも同工異曲で、主人公には幼い頃からの異性の幼馴染がいるが、現在は何らかの都合で疎遠気味になっている。
主人公は幼馴染が象徴する「過去の自分」から離れて「新しい自分」になろうと精一杯背伸びしようとするが、失敗して手痛い目に会う。
そして最終的には、「等身大の自分」をそのまま受け入れてくれる幼馴染の元に回帰する、という流れである。
『神田川デイズ』の主人公たちが、「新しい自分」になろうと足掻いた末、結末では何らかの「変化」を手に入れることができたのと比較すると、「新しい自分になんてなれない(でも、そのままで良い)」という方向に結末が変化しているのは、「休業」を決めた後の作者の心境が反映されているようで興味深い。
白眉は前述の通り「ストロベリーホープ」だが、その他の作品もどれも素晴らしい。「あさなぎ」の冒頭、藪の影で小学生の姉のキスを目撃するシーンや、「遠回りもまだ途中」で主人公が幼馴染の髪を切るシーンは極めてエモーショナルで感傷的だが、個人的には「らくだとモノレール」の主人公の友達女子2人のコミカルな造形がお気に入りである。
現状、豊島ミホが刊行した最後の小説。
物語としてはいたって王道な青春ものだが、主人公の友人であり重要な登場人物である孝子が「27歳のニートだったが、気がついたら女子高生に戻っていた」という設定がフックになっている。
もちろん孝子は(本作を執筆した時点での)作者の分身である。高校を卒業してからもずっと、私的には「青春」で受けた傷を引きずり続け、一方で作家としては様々な「青春」を書き続けなければならなかった作者自身による、「過去」に決着を付けるための物語として読むと、また特別な感傷がある。
ノンテーマなエッセイ集にして「休業」前に刊行された最後の単行本。
しかし『底辺女子高生』に比べるとずっとキレがなくぼんやりとした印象である。
2011年の東日本大震災のチャリティー企画として立ち上げられた電子同人誌(後に新潮文庫にて刊行)。すでに「休業」済であった豊島ミホも「真智の火のゆくえ」を寄稿している。思わぬ形で「最後の小説」が更新された形である。
作品としての完成度は、正直高いとは言えない。長さの割に密度が薄く、読者を楽しませるためというよりも、自分自身のために書いているという印象を受ける。
もっとも作者はすでに「小説家」ではなく、これは「同人誌」なので、当然といえば当然なのかもしれないが。
そして「文芸あねもね」から更に4年後、突如として発表された豊島ミホの「最新作」。
岩波ジュニア新書という中高生を読者に想定したレーベルから刊行されており、体裁上はタイトル通り(主に学校・クラスの)「大きらいなやつ」に対する憎しみや怒りをどうコントロールするべきか、という心理的なアドバイス・自己啓発書だが、同時に豊島ミホの(作家としての)半生を赤裸々に描いた自叙伝としての側面もある。
田舎で生まれ育ち、高校で大きなショックと挫折を経験して人間不信に。大学で上京して思わず小説家としてデビューすることとなり、悩みながらも小説家であり続けることを選び、しかし苦悩の末に小説家であることを辞める……そういった豊島ミホが語る自身の半生は、どんな小説よりも小説らしい。
まるで豊島ミホの小説の一場面を読んでいるかのようだ。確かにこれは現実に起きたことだが、しかし、現実と小説にいったいどれほどの違いがあるだろうか?
『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』は、豊島ミホという小説家、という小説を「完結」させた最後の一章であり、『檸檬のころ』で描かれなかった「サト」の物語なのだ。
初恋素描帖
中学校の1クラスを描いた群像劇……というと豊島ミホの十八番に思えるが、個人的には消化不良の出来に感じる。
掲載誌の都合もあるのだろうが、1話の分量が短すぎる。キャラクターを十分に描く前にエピソードがぶつ切りに終わってしまい、キャラクター同士のインターリンクといった「背景」を楽しんだり想像する余地が無かったのが残念である。
純情エレジー
「性と田舎」がテーマの短編集。
『リベンジマニュアル』によれば、作者はもともと「明るくて気楽に読める官能小説」を書きたいという志望があったが、実現できなかった(それに対する無力感も休業の一因でもある)という経緯があり、その意味で「休業宣言」後に最初に出た本作で、「ずっとやりたかったこと」を初めてテーマにできた……というのは皮肉な話かもしれない。
内容は「青空チェリー」に比べて文体も内容も遥かに落ち着き、しっとりとしていて「大人」である。が、『ぽろぽろドール』と同じく性愛を「神秘的なもの」にしすぎているきらいがある。
夏が僕を抱く
豊島ミホのオブセッションである「幼馴染」がテーマなだけあって、どのエピソードも面白い。傑作である。
短編集だが、物語の構造は6編とも同工異曲で、主人公には幼い頃からの異性の幼馴染がいるが、現在は何らかの都合で疎遠気味になっている。
主人公は幼馴染が象徴する「過去の自分」から離れて「新しい自分」になろうと精一杯背伸びしようとするが、失敗して手痛い目に会う。
そして最終的には、「等身大の自分」をそのまま受け入れてくれる幼馴染の元に回帰する、という流れである。
『神田川デイズ』の主人公たちが、「新しい自分」になろうと足掻いた末、結末では何らかの「変化」を手に入れることができたのと比較すると、「新しい自分になんてなれない(でも、そのままで良い)」という方向に結末が変化しているのは、「休業」を決めた後の作者の心境が反映されているようで興味深い。
白眉は前述の通り「ストロベリーホープ」だが、その他の作品もどれも素晴らしい。「あさなぎ」の冒頭、藪の影で小学生の姉のキスを目撃するシーンや、「遠回りもまだ途中」で主人公が幼馴染の髪を切るシーンは極めてエモーショナルで感傷的だが、個人的には「らくだとモノレール」の主人公の友達女子2人のコミカルな造形がお気に入りである。
リテイク・シックスティーン
現状、豊島ミホが刊行した最後の小説。
物語としてはいたって王道な青春ものだが、主人公の友人であり重要な登場人物である孝子が「27歳のニートだったが、気がついたら女子高生に戻っていた」という設定がフックになっている。
もちろん孝子は(本作を執筆した時点での)作者の分身である。高校を卒業してからもずっと、私的には「青春」で受けた傷を引きずり続け、一方で作家としては様々な「青春」を書き続けなければならなかった作者自身による、「過去」に決着を付けるための物語として読むと、また特別な感傷がある。
やさぐれるには、まだ早い!
ノンテーマなエッセイ集にして「休業」前に刊行された最後の単行本。
しかし『底辺女子高生』に比べるとずっとキレがなくぼんやりとした印象である。
私は『L25』創刊時に連載のお話をいただいたのですが、その時に自分で決めたのは、「愚痴を書かない」「説教をしない」の二つでした。(中略)とあとがきにも書いている通り、本心、すなわち「作家辞めたい」という「愚痴」が封印されているので、「本音で語っていない」ムズムズとした空気を感じる。
この連載を担当していた頃、本当は、私も疲れていました。でも、疲れている人に大して、疲れたとは言いたくなかった。
(『 やさぐれるには、まだ早い!』あとがき)
文芸あねもね
2011年の東日本大震災のチャリティー企画として立ち上げられた電子同人誌(後に新潮文庫にて刊行)。すでに「休業」済であった豊島ミホも「真智の火のゆくえ」を寄稿している。思わぬ形で「最後の小説」が更新された形である。
作品としての完成度は、正直高いとは言えない。長さの割に密度が薄く、読者を楽しませるためというよりも、自分自身のために書いているという印象を受ける。
もっとも作者はすでに「小説家」ではなく、これは「同人誌」なので、当然といえば当然なのかもしれないが。
大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル
そして「文芸あねもね」から更に4年後、突如として発表された豊島ミホの「最新作」。
岩波ジュニア新書という中高生を読者に想定したレーベルから刊行されており、体裁上はタイトル通り(主に学校・クラスの)「大きらいなやつ」に対する憎しみや怒りをどうコントロールするべきか、という心理的なアドバイス・自己啓発書だが、同時に豊島ミホの(作家としての)半生を赤裸々に描いた自叙伝としての側面もある。
田舎で生まれ育ち、高校で大きなショックと挫折を経験して人間不信に。大学で上京して思わず小説家としてデビューすることとなり、悩みながらも小説家であり続けることを選び、しかし苦悩の末に小説家であることを辞める……そういった豊島ミホが語る自身の半生は、どんな小説よりも小説らしい。
その前だったか後だったか、判然としませんが、ある明け方、夢を見ました。
幼なじみの子が、髪を切ってくれる夢です。
当時私は、髪を肩より長く伸ばしていました。あまり似合っていないヘアスタイルでしたが、美容院に行くのが嫌で、そんなずるずるした長い髪になっているのでした。
幼なじみの名前は「みほちゃん」。私のこのペンネームの、由来になった女の子です。みほちゃんは、私の本の、最初の読者でした。保育園で「おみせやさんごっこ」をした時に、私がひらいた「ほんやさん」の本を買ってくれて、その本を、思春期ぐらいまで、ずっと持っていてくれました。中学で進路に悩んだ時、「小説家になりなよ」と言ったのも、みほちゃんでした(まあ私はそれでもマンガ家志望だったのですが、何故かその時「なれる気がする」と思ったことが、当時の日記に残してあります)。しかしいつからか、私は彼女に会っていませんでした。
そのみほちゃんが、お風呂場かどこかで、ケープを巻いた私の後ろに立って、髪を切っていきます。
散髪が終わって鏡を見た時、私は「あっ、昔の私だ」と思いました。失くしたはずの、昔の私に戻った、と思いました。
その後みほちゃんとふたりで、小学校の裏の道を歩いていくところまでが、夢でした。
私はその夢から覚めた瞬間に、「もう今日から新規の小説の以来をすべて断る」と決めました。
(『リベンジマニュアル』112頁)
まるで豊島ミホの小説の一場面を読んでいるかのようだ。確かにこれは現実に起きたことだが、しかし、現実と小説にいったいどれほどの違いがあるだろうか?
『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』は、豊島ミホという小説家、という小説を「完結」させた最後の一章であり、『檸檬のころ』で描かれなかった「サト」の物語なのだ。