2018/04/04

『こち亀』の作風変遷・全盛期・女性観について考える

こち亀は何巻ごろが「全盛期」か? そして、何巻ごろからダメになったのか?

『こち亀』こと『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のファンが集まると、自然とこういう話題になる。
「ファン」なのに「ダメになった」こと前提かよ、とツッコまれるかもしれないが、残念なことに「こち亀は1巻から200巻まで全部最高だよ!」と主張する人はほとんど見たことがないので仕方ない。
マンネリ化・キャラ崩壊・作者の衰え……『こち亀』は日本を代表する長期連載作品であり、それゆえ長期連載作品の負の側面も代表してしまっている。

最も多い意見としては、「100巻までは面白いが、それ以降は……」とよく言われる。
100巻までというのは区切りが良いし、概ね多くの人が同意する分け方のようだ。
もう少し厳しい人は「いや、麻莉愛が出てきたあたり(67巻)からすでに下り坂だ」と主張したりもする。

このようなことを考えながら、今回『こち亀』をざっと読み返してみたので、各時代(10巻単位)ごとの作風の変遷を辿ってみた。

10巻まで


最初期は両津のキャラもあまり固まっていない。
基本的には破天荒なトラブルメーカーではあるが、一方でマトモで常識的なところもあったり、他のキャラが暴走して被害を受けたり、ツッコミに回ることもしばしばある。良く言えば等身大の人間に近い。
中川のヘマをフォローしたりしている。
(2巻「にくいヤツ!?の巻」)

この時期はギャグ漫画というよりも、下町のお巡りさんを描いた人情ものという趣も強い。エピソードの内容は、ほとんどが派出所とその周辺の下町を舞台にしたものにとどまる。

「この時期がこち亀で一番好き!」という人は、珍しいだろうが決してひねくれているわけでもない。他の時期にはない独特の魅力がある。

10巻台


11巻で麗子が初登場し、レギュラーに定着。
それまでは「タバコ屋の洋子ちゃん」を除き、メインキャラはほぼ男だけだった。
麗子という女性=他者の目線が登場したことで、徐々に派出所メンバーの相対的な立ち位置が固まっていくことになる。
初期は「女性」という(異物としての)属性が強調される麗子だが、だんだんと派出所(=作品)に馴染んでいくのが味わい深い。
(12巻「土俵の鬼!?の巻」)
例えばそれまでは大原部長は「年長の上司」 というぐらいの存在でしか無かったのだが、両津の無法図な言動を取り締まる「子供(両津)を叱る大人」という立ち位置になっていく。

また14巻では本田が初登場。
「普段は大人しい青年だが、バイクに乗ると人が変わる」という至ってマンガ的設定のキャラクターだが、こうした「1つのアイデアからギャグを展開する」作風が、後述のようにこち亀を「下町の人情ドラマ」から「なんでもありのギャグ漫画」に転換させたと言えるだろう。

20巻台


初期から中期の過渡期と言うべき重要な時期。

個人的に、非常に地味ながら重要なターニングポイントだと思っているのが、20巻の「カギっ子?の巻」である。
『こち亀』がギャグ漫画に転身を果たす「カギ」となった一編?
(20巻「カギっ子!?の巻」)
この回は「とにかく用心深く、家にカギを付けまくっている男に両津が振り回される」という話なのだが、カギにまつわるギャグがしっかり作り込まれていて、質が高いコメディになっている。

それまでは「キャラが巻き起こす(比較的現実的な)ドタバタ」がギャグのメインだったのだが、この回で「特定のテーマ(今回だと「カギ」)を元にホラ話を展開する」という中期以降の基本構成が確立されたと思っている。

30巻台


このあたりから最初期の作風は消え、「中期」に突入したと言っていいだろう。

前述した通り、毎回多彩なネタを取り上げながらギャグを展開する、一話完結ギャグ漫画の作風が確立されている。
後に比べるとコマが大きめで、ネタの密度はやや薄めな印象を受けるが、これぐらいの方が読みやすいという人も多いだろう。
オチの一コマ。まだ平和。
(30巻「親子水いらず!?の巻」)
一方で絵柄や雰囲気には初期の匂いがまだ残っており、ナンセンスなギャグの勢いで笑わせる場面も少なくない。
いつ読んでもシュール。
(31巻「ホップ!ステップ!ジャンプ!の巻」)

40巻台


徐々にセリフが増え、ネタの密度が高くなっていく。
このあたりがいわゆる全盛期と呼ばれることの多い時期だろう。
このような雑学ネタも徐々に増えてくる。
(40巻「コレクションの巻」)
また43巻では花山理香(天国のジジイ)が登場するなど、ファンタジー要素も登場。面白ければ何でもアリという『こち亀』らしい雑食でパワフルな作風が強化されている。

50巻台


ネタの密度はさらに上昇。エピソードも1話毎にダイナミックな展開を見せる回が多く、作品として最も充実した黄金期と言えるだろう。
毎回バリエーション豊かなネタとギャグが尽きること無く展開される。これぞ『こち亀』。
(50巻「おせんべい屋両さんの巻」)
名エピソードは多いが、個人的には51巻の「ハワイアンパラダイス」を推したい。ギャグとストーリー、両津や本田のキャラクター性の描写のバランスが見事である。
太平洋横断というダイナミックなネタを1話にまとめる手腕。
(51巻「ハワイアンパラダイスの巻」)

60巻台


傑作と名高い「体力株式会社」が収められているなど引き続き円熟した時期。
ただしこのあたりから少しずつセリフのフォントが派手になっていく。
「第4試合に元プロ野球選手が3人も入っていたんだ!」一度は言ってみたいセリフ。
(60巻「体力株式会社の巻」)
作風としては、ナンセンスなギャグはかなり少なくなり、ストーリーの脈絡や薀蓄をより重視するようになっている。「下町交番日記」シリーズ(64巻)はその代表だろう。

また冒頭の通り、67巻では麻莉愛が登場する。

「麻莉愛が出てからダメになった」という意見は、決して的外れでもない。全盛期を過ぎ、緩やかな下り坂に差し掛かっている時期と彼(後に彼女)の登場がちょうど一致するからだ。

しかし、麻莉愛「のせいで」ダメになったと言う表現は誤解を招くだろう。
麻莉愛は後の擬宝珠一家のように作品に多大な影響をもたらすほどの存在ではなく、あくまで一脇役に過ぎない。
麻莉愛は基本的に控えめな性格なこともあり、本田のような「両津の相棒」ポジションにはなれなかった。
(68巻「聖なる夜の大天罰!の巻」)
むしろ一脇役としてあまり目立たない存在でしかない(のに準レギュラーとして良く出ている)ということが、あえて言えば問題であるとも言える。

長期連載になってネタが無くなってきたコメディ作品では、このように新キャラが増えていくことが多い。
新キャラを出せば、そのキャラの紹介、既存キャラとの絡みなどで数話ネタが作れるし、そのキャラの関係者――麻莉愛で言えばホンダラ親父やマリリンなどの家族――も出せば更にエピソードが稼げる。

しかし代償もある。新キャラの紹介はあくまで新キャラの物語であり、その間、両津をはじめとしたレギュラーキャラたちは傍観者にならざるをえない。
読者が魅力を感じていたメインキャラクターが背景になってしまう可能性があるのだ。だからどんな作品でも新キャラを乱発し始めたら、それは危険な兆候である。

70巻台


前述通り、麻莉愛やホンダラ親父の登場により、キャラクターを中心にエピソードが展開することが多くなった。白鳥麗次やボルボ西郷がその代表である。
特にホンダラ親父の登場率がこの時期はやたら高い。
(70巻「ボルボ式射撃特訓の巻」)
このあたりから徐々にマンネリ化・自己模倣(過去のエピソードの焼き直し)・ギャグの薄さなどが目につくようになっていく。
「両津が商売に乗り出すも失敗 」というワンパターンな展開・オチや、単に雑学の薀蓄を集めただけというパターンも多い。

特に70巻台後半(初代『カメダス』が出た頃)からはかなり露骨にマンネリが目立ってくる。
とは言え、まだ読んでいて不快になるレベルのエピソードはなく、絵も綺麗であり、キレのあるセリフ回しも健在である。

80巻台


だいたい70巻と同じで、老成したというか、大いなるマンネリというべきフェイズに突入した感がある。
あえて言えば、「リサーチ会社」「売店」など一業界を取材→うんちくをまとめた「情報マンガ」の傾向がより強まっている。
またTVアニメ版の影響か、両津vs婦警という構図もこの頃から定番になり始める。
この回で視聴率の仕組みを学んだという人も多いのでは?
(80巻「両津リサーチ会社の巻」)
また82巻で、(自分が確認した限り)おそらく初の「細い線のマネキンみたいな顔のモブ」が登場する。このモブを描くアシスタントはネットではsagaXと称され(概ね嫌われ)ている。
このマネキンモブの絵柄を嫌う人は、このあたりから拒否反応を示してしまうかもしれない。
(多分)初のマネキン顔モブ登場シーン。
(82巻「おむすびころりん!の巻」)

90巻台


時代を取り入れてか、パソコンやゲームなどのITネタが増えてきている。それに伴い、前述のマネキン顔モブの登場頻度も右肩上がりに増加。

ジョディーや乙姫といった新美少女キャラも登場。ホンダラ親父や白鳥麗次と比べると、新キャラの特徴にも時代の流れを感じる。

ただ完全に個人の感覚だが、この時期は、70巻前後の落ち着いたマンネリ期と比べると、ギャグやセリフにやけくそ気味の勢いみたいなものがあって、結構好きである。
個人的に好きなこの時期のエピソード。
(90巻「クーラー完備!?ニコニコ寮の巻」)

100巻台


流行ネタが非常に多く、プリクラ・たまごっち・エアマックスなどの若者文化が盛んにネタにされている。
この時期は「流行りものをネタにすること」自体が目的化しているような印象すら受ける。
(102巻「ナイスなシューズで大行進の巻」)
そんな中で個人的に着目したいのが、103巻の「麗子の婿とり選手権!!の巻」。

麗子の結婚相手を選ぶコンテストが開かれ、両津も(最初は財産目当てで)参加するのだが、ここで両津は「結婚すれば麗子からベッドに誘ってくるようになる」と想像し、「おげれつパワー」を発揮して見事優勝する。
しかし、両津が麗子(に限らず特定の女性キャラ )に対して、直接的な性欲を向けたのはこれが初めてではないだろうか。
両津が真の意味で「性に目覚めた」瞬間?
(103巻「麗子の婿とり選手権!!の巻」)
たしかに両津はそれまでにも「おげれつビデオ(この表現もこち亀ならでは)」ばかり見ているという設定はあったものの、それはあくまで「自堕落な独身男」を示すための記号に過ぎず、決して両津自身のリアルな性欲が描かれていたわけではない。
 
麗子をはじめとした、女性キャラへの直接的な性的視点というのは一種のタブーであった感があるが、このシーンを境に、麗子を始めとした女性キャラの直接的なお色気シーンが「解禁」されることになる。

110巻台


110巻で磯鷲早矢が登場。弓道関係のエピソードが多くなり、ギャグがほとんどない「感動エピソード」も多い。

111巻では天国ジジイの魔法により、麻莉愛が完全な女性となる。
女性キャラの増加に伴い、前述の通りお色気描写も右肩上がりに増大。特に麗子を始めとした巨乳キャラのバストがどんどん大きく描かれるようになる(上記の113巻表紙などを参照)。

作者によれば、当時はイエローキャブ所属の巨乳タレントが流行っていたのでそれに乗ったとのことだが、どうも自分には作者が「エロに目覚めた」ようにしか思えない。
この(特に麗子の)エロ売り路線については、「妻にしたい女」と「愛人にしたい女」は別、という男の普遍的な心理を考えると、ある程度説明がつくように思う。

つまり、麗子のような元気で胸が大きくフェロモンを撒き散らすような女性は、「愛人」にはしたい(エロ目線で見たい)が、妻として考えるとふしだらすぎて(すぐに他の男と寝そうで)不安である。
妻にするなら、早矢のような(性的魅力には乏しくても)貞淑な大和撫子(もしくは麻莉愛のような自分に一途な相手)のほうが安心、という心理である。
「理想の妻(候補)」過ぎてギャグマンガのキャラとしては浮いている早矢。いや、いい子なんだけどね……。
(114巻「妹・飛鷹右京登場!!の巻」)
これまでは麗子は「ヒロイン」として扱われていた。だから安易なお色気シーンは描けなかった(「嫁候補」として大事にしていた)。
しかし、次第に早矢のような「安心できる妻」に「理想の女性」像がシフトし、そうすると麗子はすでに「昔の女」なので、安心してエロ目線で消費できる……というわけである。

なんだか酷い書き方になってしまったが、決して「麗子がかわいそう」などと言いたいわけでもない。
「本当に好きな子ではヌケない」というのは、男子ならみな思春期から持っている、普遍的な心理である。

120巻台


118巻で擬宝珠纏(と超神田寿司)が登場。ここで、こち亀の歴史でも最も大きな作風の転換が起こる。
両津が超神田寿司に住み込みで寿司屋として働くようになり、エピソードの中心も派出所から寿司屋に移ってしまうのだ。それに伴い、纏・檸檬・夏春都といった擬宝珠家の登場頻度が著しく上がる。

擬宝珠家の存在は、しばしば指摘されるとおり、両津にとっての「擬似的な結婚」である。
(ちなみに纏はキップの良い「少年のような女性」であり、やはり麗子のような「愛人にしたい女」ではなく、「妻にしたい女」として描かれている。)
「疑似結婚」としては、やはり纏が若すぎる点が引っかかる。いや、いい子なんだけどね……。
(120巻「両さんのミレニアム婚!!の巻」)
なぜ両津を擬似的に結婚させたのかと言えば、やはりこれも作者の加齢により心理の変化だろう。
両津は、仕事が嫌いで遊びが好き、本能と感情の赴くままに動く、「少年」の象徴のようなキャラである。
だから、仕事や規律や常識や理性といった「社会」の「大人」の象徴である大原部長に日々説教されながら、それでも自分のやりたいことを貫く。その「永遠の子供」の姿に読者は自分を重ね、憧れ、活躍を楽しむことができた。

しかし作者にとっては、いつの間にか両津の姿は共感できるものではなくなっていったのかもしれない。
大原部長が「両津のバカはどこだ!」と最後のコマで激怒しながら派出所にやってくる、という『こち亀』の定番オチがある。
最初は単に怒っているだけだったのだが、徐々に表現がエスカレートして、鎧を身につけたり、はてには戦車で乗り込んできたりもする。

これは「定番ギャグ」としてファンには親しまれているようだが、自分はあまりそうは思わない。
部長のツッコミ=「社会の常識」の制裁がだんだん強くなっていったのも、作者自身が両津の無法図な自由をあまり楽しんで描けないようになったからに感じる。
実際、後期(アニメ化以後ぐらい)の両津は行動原理が「金のため」ばかりになってしまっている。最初は「好きなものを買うために金が欲しい」キャラだったはずだが、いつの間にか「金の亡者」に記号化されてしまった。

夏春都が(作品内でも、メタ的に見ても)非常に「強い」、絶対的な存在として描かれているのも同様だ。両津=子供を強く叱ることができる大人を、作者は必要としていたのかもしれない。
だとすれば両津が、(人間としてはともかく)ギャグ漫画の主人公として、去勢された犬のように弱々しくなってしまうのも仕方のない話である。

まとめ:初期・中期・後期

大まかに分類すると(TP=ターニングポイント)

  • 1~19巻:初期
  • 20~29巻:過渡期1 TP→カギっ子
  • 30~39巻:中期1(前半) TP→アメリカ旅行
  • 40~66巻:中期2(中盤・黄金期) TP→両津左遷
  • 67~89巻:中期3(後期・大いなるマンネリ期) TP→麻莉愛登場
  • 90~109巻:過渡期2 TP→saga絵増加
  • 110~139巻:後期1 TP→早矢・纏登場
  • 140巻~:後期2 TP→通天閣署登場

こんな感じだろうか。130巻台以降はあまりしっかり読んでいないのでここでは詳しく取り上げない。

個人的には 全盛期は40~60巻台だと思うが、もちろんそれ以降が全部ダメというわけでもなく、100巻以降もところどころ笑えるエピソードやさすがと思わせるセリフのキレはある。
晩節を汚した、そしてその晩節が長すぎたと言われようとも、やはり全体としてみれば『こち亀』は面白いマンガなのだ。