2019/01/22

大人が読む『ズッコケ三人組』シリーズ全巻感想

『ズッコケ三人組』は自分が小学生の時に何度も読んでいた思い出深いシリーズだ。
最近久々に手に取るとこれまたハマってしまって、気がつけば一気に全巻50巻+『中年三人組』シリーズまで読破してしまった。

というわけで、日本の現代児童文学の代名詞とも言える『ズッコケ三人組』のシリーズ全巻の感想(内容のネタバレをナチュラルに含んでいるのでご注意を)。

タイトルの後の「A」「B」「C」は個人的な好みというか満足度である(Aは「大傑作!」、Bは「面白い」、Cは「そこそこ…」ぐらいの感じ)。

それいけズッコケ三人組 B


今回『ズッコケ』シリーズを再読して感じたのは、文章の水準の高さだ。
たとえば「立石山城探検記」の一節。

ハチベエは、思わずかべから手をはなすと最後の力をふりしぼって光のすじめがけて走った。近づくにしたがって、光のすじは、はっきりとしてきた。そしてそれが、なんまいもかさなった岩かげのすきまからもれる外の光だということがわかるまで、そんなに時間はかからなかった。

子供にも理解できるシンプルな語彙ながら、丁寧かつ正確な描写。
子供を子供扱いしない、子供に媚びない、大人が読んでも感心するような文章こそが『ズッコケ』シリーズを支える屋台骨になっていると言えるだろう。

本作はシリーズで唯一の短編形式だが、構成も上手い。
第一話で三人組それぞれを紹介しつつ、第二話では三人組が揃って活躍。
第三話では新井陽子と榎本由美子という新キャラが登場して、第四話ではその二人も一緒に冒険に参加する……というように世界が徐々に広がっていくのが丁寧だ。

最後の第五話も短い中にしっかりどんでん返しが含まれており、それがラストのカタルシスにつながっている。
ハチベエとハカセの考えた作戦はカンニングである。すなわち本シリーズは先生や大人に褒められる「いい子」の話ではないですよ、というスタンスが第1作にしてはっきりと示されているのだ。


ぼくらはズッコケ探偵団 C


『ズッコケ』シリーズにいくつかあるミステリーものの第一弾。

しかし本作で三人組が取り組む事件は殺人事件であり、これは児童文学のミステリーとしてはやや異色な気もする。

なぜ児童向けミステリーで殺人事件は避けられるのか。
第一に小学生の読者と作中のキャラクターにとって、殺人は刺激が強すぎるという教育的な視点。
第二に小学生にとっては殺人・死というモチーフは(現実的に)あまり馴染みがないという視点。
第三に作中の小学生が警察に先んじて殺人事件を解決してしまうというのは、フィクションとしても荒唐無稽過ぎてリアリティを保ちづらいという視点。

特にこの『ズッコケ』シリーズは、(ハカセという冷静な視点人物がいることもあり)比較的リアリティが強い作風である。
この巻でも「割れたガラスを復元して手がかりを手に入れる」展開があるが、それに対して「警察もこれぐらいやってると思うよ」というようなハカセの指摘がないのは、今読むと少し不自然だ。初期作ゆえの作風のブレを感じる。

一方で、ハカセの理屈っぽいやり方に皮肉で返すハチベエや、モーちゃんのマンガ好きエピソード(事件とまったく関係ない)が語られる部分など、脇の描写にキャラの魅力が出ている。


ズッコケ(秘)大作戦 B


三人組は、基本的に色恋沙汰には無縁である(ハチベエは女の子好きだが、それは恋愛でも性欲でもない、思春期以前の生理的反射、ヒラヒラ舞うマントに興奮して突っ込んでいく闘牛のようなものだ)。

だが、この巻では珍しくモーちゃんの恋心が描かれるという点で、やはり初期らしい異色作と言える。

子供の頃に読んだ際は、マコが借金取りに追われていたりクラスで陰口を叩かれていたりとジメジメした展開が好きでなく、あまり読み返さなかったのだが、今読むと興味深い内容だ。

確かにマコは借金取りに追われていることを隠していたし、その気持ちはわかる。しかし家が金持ちであるとウソをつく必要はまったくない
この話で本当に悲劇的なのは、マコの家が貧しいことではなく、マコが生きていく上で反射的にウソをつかずにはいられないことの方なのだ。

ほとんど病的に染み付いているマコの虚言癖。しかし作中で誰かがマコに「ウソつくのやめろよ」と面と向かって言うシーンはない。
他人の生き方に軽々しく口を出せない。『ズッコケ』らしい絶妙な距離感であり、これが「教育的」な児童文学らしくないのが良かった。


あやうしズッコケ探検隊 A


シリーズでも人気の高い一作。
無人島に三人が漂流してしまう。非常に危機的な、しかし同時にかなり心躍る、危険と自由にあふれた冒険。少年の心を躍らせる作品だ。

子供向けなので緊迫感はそれほど感じないが、それでいて日常的なリアリティはある。つまり小学生が読みたい部分、家の作り方とか食料の獲得の仕方とかがちゃんと書かれているのが良い。

「漂流するまでの経緯」に描写を割いているのも面白かった。
経度を測り間違えたり、ライオンの習性を勘違いしたりと、リアルにありそうな失敗をしているのも『ズッコケ』らしい。

対して無人島で一人で暮らす老人のエピソードは、今読むとかなりあっさりしていて、書き込み不足を感じる。
数週間前に足を食いちぎられた割には、あまりそのことに頓着していないように見えてしまう。


ズッコケ心霊学入門 C


ホラーものも『ズッコケ』ではしばしば題材となる。これはその第一作。

全体的に浩介というゲストキャラが「当事者」で、三人組はあくまで「傍観者」の役割のためどうも緊迫感がない。
専門家たちが登場するくだりも「大人の世界」の話で、三人組=読者にとっては他人ごとという印象になってしまい、いまいち消化不良である。

普通の児童小説なら「霊の仕業かとおもいきやタネがあった」となるのが王道だろうが、そうではなくて、「本当に霊の仕業だった」ということを「科学的に」説明する、というひねり方は『ズッコケ』らしい。


ズッコケ時間漂流記 C


SFものの第一作。『ズッコケ』はミステリーにホラーにSFと、娯楽作品の王道ジャンルを横断していることがわかる。

もっともこの巻は、タイムスリップというSFギミックに少し振り回されていた印象だ。
江戸時代に三人組がタイムスリップするわけだが、万能キャラの平賀源内が早々に助けにやってきてくれるので緊迫感が無く、三人がやったことは平賀源内に飛行機模型と三輪車を見せただけ。
キーパーソンとなる音楽の先生も最初と最後にちょろっと出てくるだけで物足りない。


とびだせズッコケ事件記者 A


個人的にシリーズの中でもベスト5には入る傑作。

三人組がそれぞれ異なる事件に取り組むため、物語が三重に広がって、読んでいて飽きない。
そのバラバラだった三人が、それぞれ失敗して、しかし最終的に協力して大きな事件を解決するという王道の展開に加え、更にラスト、畳み掛けるようにハチベエにもう一つのハッピーエンドが訪れる。見事なストーリーテリングだ。

『探検隊』と同じく、小学生が「記者」をやろうとする、そのディティールも楽しい。
名刺を作るシーンなんかは、小学生にとってはたまらなく魅力的に映って印象的だった。
やるべきことがたくさんあって忙しい、ということの「嬉しさ」が伝わる。新聞を通じて、小学生が初めて「社会」に参加する、大人びた感触の自負が描かれている。

モーちゃんがケーキ屋に取材に行く展開も面白いし、モーちゃんが寝込んだことが他の新聞に書かれまくるというのもなんとも小学生らしい付和雷同で笑える。

一方でそういったコミカルな展開だけでなく、取材相手の両方に「こっちの方が美味しかったと書く」いってしまった手前どうすればいいのかわからない、という新聞におけるスポンサーの問題、事実をどう記事にすればいいのかというジャーナリズムの責任とジレンマというテーマまで入っているのだから、見事の一言である。


こちらズッコケ探偵事務所 C


ミステリーもの第二弾。
血生臭すぎた前作の反省(?)を踏まえてか、事件は比較的ソフトな「ニセ宝石作り」に。モーちゃんが誘拐されることで三人組が「当事者」となり緊迫感も増した。

しかしその代償か、誘拐犯の言動がいかにも子供向けに幼稚化されてしまって、大人が
サスペンスとして読むのは難しい。
「警官を連れてきたのに犯人を捕まえられない」という終盤の展開は、「警官=絶対的正義」という子供の固定観念を覆す印象的なシーンだったが、いずれにしても「子供向け」を意識しすぎたように感じる。


ズッコケ財宝調査隊 C


タイトルから探検ものに見えるが、実際は若くして死んだモーちゃんのおじさんにまつわる物語を三人が調べる……という児童文学として渋すぎる題材
自分が生まれる前に死んだ親戚の話に、どれぐらいの小学生男子が興味を持つだろうか……。

最終的には、見つかったのは財宝ではなく思いきや変な骨、しかしそれは実は考古学的に重要な北京原人の骨だった、というオチもやはり渋すぎる。しかし良くも悪くも子供を子供扱いしないのが『ズッコケ』の作風とも言える。


ズッコケ山賊修行中 C


多くの小学生読者たちにトラウマを植えつけただろう一作。
かくいう自分も、この巻は怖くて子供の頃はあまり読み返せなかった覚えがある。

世間には知られていない、謎の共同体の不気味な雰囲気が良く出ている。
三人が脱出に成功するも、逃げ込んだ交番の警官たちもグルだった、というシーンは今読んでもゾクッとする。

これは『ズッコケ』シリーズで繰り返し使われる手法で、「絶対安全」なはずの「日常」に戻って、実はそこにも影が忍び寄っていた、という「上げて落とす」怪談的展開である。これが小学生の時はとても怖かった。

ただし大人になってから読むと、くらやみ族の描写にややリアリティを感じられなかったのが残念なところ。
嫌がる子供たちを世話するくらやみ族の心理もよくわからないし、わりと悠々と毎日を送っている三人の心理も測り難い。
個人的には、やはり現実味の強い作品の方が楽しめるようだ。


花のズッコケ児童会長 A


ファンの間でも人気が高い、まごうことなき傑作。今読み返しても、エンターテイメントとして非常によく出来ていると感心する。

津久田という少年に一泡吹かせるために生徒会選挙に参戦する三人組が描かれるのだが、まずハチベエが津久田と因縁を持つまでの過程がしっかり描かれているのが良い。
ポイントは、ハチベエが津久田を(正義感ではなく)単純に私怨から恨んでいる点で、このおかげで選挙=政治というテーマにどうしてもまとわりついてしまう説教臭さをうまく回避できている。

立候補する生徒の候補を挙げていくシーンも好きだ。
『ズッコケ』シリーズは三人組が主人公であるが、彼らの所属する花山第二小学校6年1組のクラスメイトたちも度々登場している。
彼らも脇役ながら個性的で魅力的であり、子供の頃は単行本の裏表紙の花山町の地図と、クラスメイトたちの座席表を眺めるのが好きだった(残念なことに文庫版ではこれらのイラストは省かれている)。
これまでのシリーズで、脇役のクラスの生徒達を描写してきたのがここで活きてくる。

結局、クラスのマドンナである新井陽子を担ぎ出すことにしたハチベエたち。
選挙運動が盛り上がっていく様を、「モーちゃんに一時フォーカスして、知らない間にどんどん話が進んでいる」風に表現するのも上手い。
『ズッコケ』は三人組が別行動すると面白くなると思っているのだが、ここはまさにそうだ。

『事件記者』は「大人の真似をする」楽しさを描いていたが、本作は反対に「政治の真似事」の危うさを描いていると言える。
本作で描かれる選挙活動は、どうも終始危なっかしさを感じるのだ。たとえば神社の境内で講演者を集めてジュースやらお菓子やらを振る舞うシーン。間違ったことはしてないはずなのだが、どうも手放しで憧れられない、なんとも言えないきな臭さがある。このあたりの匂わせ方がとても上手い。

中盤まででも十分すぎるぐらい濃密な内容なのだが、さらに終盤、ハチベエ自身が立候補するという熱い展開に突入して盛り上がりは最高潮に達する。

最終的に生徒会長になったのはハチベエでも津久田でもなく、ノーマークだったメガネの生徒、というオチなのだが、これも良くできてる。
つまり、描写されていなかったが、裏で津久田に反感を持ったり胡散臭さを感じていた生徒もかなりの数いたというが黙示的に描かれているのだ。みんな、それほど「マヌケな大衆」なんかじゃなかった、というのが一番の「救い」になっている。

そしてラストシーン、ハチベエがハチベエとというアダ名で認識されていた、つまり誰よりも本当に親しまれていたからこそ落ちてしまった……という最後のオチが付き、完璧な読後感を読者に残して幕を閉じる。
ハチベエやハカセやモーちゃんと同じく、クラスのヒーローではないすべての「ズッコケ」た少年たちに永遠に読み継がれて欲しい一冊である。


ズッコケ宇宙大旅行 C


SFものの第二弾は、より王道な宇宙人もの。
ただ、宇宙人との接触の前に第何種接近遭遇だのなんだのと、ちゃんと科学的・学問的なアプローチで外堀を埋めるのがこのシリーズらしい。

「念じるだけで殺せる武器」というようなSFギミックが、いかにもプロパーなSFとはちょっと雰囲気が違っていて、そこに目新しさがある。
展開は全体的にトントン拍子で描写が薄く感じるが、最終的に、これらはすべて「実験」だった、というどんでん返しが来る。「感動的な異星人との交流」を台無しにするような、まことに『ズッコケ』らしいひねり方に感じる。


うわさのズッコケ株式会社 A


公式の投票では一番人気が高く、その名に恥じない最高傑作のひとつだろう。
『児童会長』は津久田という「敵」をやっつける物語だったが、こちらは「商売」というより普遍的なテーマで、だから「悪い人」が誰もおらず、しかしちゃんとカタルシスがある。

商売を思いついてからちょっとずつ儲けを大きくしていって、しかし調子に乗ったところで落とされ窮地に陥るも、最後には大逆転、という王道を見事に描ききっていて、読んでいて本当に楽しい。
細かく見れば、最初に成功して株式会社を設立、それを踏まえて二回目にも成功、しかし二回目は売上は伸びたのに儲けは下がった、というシビアな現実を見せ、不安な気配を漂わせるあたりの感情のコントロールが上手い。

いかにも小学生らしい発想で動くハチベエと、わざわざ商品が売れなかったことを株主に伝えるハカセの対比も面白い。

『事件記者』で「社会」が、『児童会長』で「政治」が書かれたように、この巻では「経済」が描かれている。いずれも「大人の領域」に三人が触れるという構図は同じで、どれも傑作だ。
子供は大人のやることを真似したがる、だからこの三作はどれも面白い。小学生の夢を叶えてくれるお話だからだ。空を飛んだりスーパーヒーローになることだけが小学生の夢ではないのだ。


ズッコケ恐怖体験 C


ホラーものの第二弾。『心霊学入門』をブラッシュアップした構成になっている。
幽霊に取り憑かれる「恐怖体験」はもとより、物語中盤でハチベエたちが花山町=日常に戻ってきてからも幽霊が取り憑いたまま……という怖さがミソである。

もっとも読み返してみると、この作品の「怖さ」は表紙の幽霊のイラストが大部分で、内容自体はあまり怖くはなく、むしろ読めば読むほど怖さが薄れていく
これも『探検隊』と同じく、ストーリーの核は田舎村の幽霊伝説を「調べる」話なのである。

『ズッコケ』シリーズに一貫するのは「調べる」という行為だ。
何か新しい事件に遭遇すると、ハカセはとにかく「調べる」。ポルターガイストについて、UFOについて、株式会社について、偽札について調べる。

この作品ではそのテーマが顕著で、なにしろクライマックスが「幽霊伝説を調べてみんなの前で発表する」シーンである。ホラーものとして類を見ない展開な気もするが、これがなんとも『ズッコケ』らしい。「遊女屋」なんて児童小説に出てくる言葉とは思えないぞ。

「怖さ」という感情は、「分からない」という未知への不安から生まれる。
「調べる」という行為は、未知の領域の霧を払ってくれる。だから本作は幽霊譚だが、怖くはないのだ。


ズッコケ結婚相談所 A


子供の頃はあまり印象がなかったが、大人になって読み返してよかったと思った一作だ。

まず、冒頭の「子ども相談室」を始める展開がなかなかおもしろい。
意気揚々とはじめたと思いきや、いきなり身内からの電話で出鼻をくじかれるのもギャグとして面白いし、調子に乗っていたら親に怒鳴り込まれて潰されてしまうというのも、なんだかリアリティがある。
そしてこのシーンは、「家族という共同体は「よそ者」の介入を毛嫌いする」という後半の展開を暗に予告もしている。

中盤からはモーちゃんのお母さんの再婚問題がストーリーのメインとなる。
再婚相手候補の成田さんが非常に好漢で、社会的地位のある大人だが、子供たちにも気さくで、しかも不自然に馴れ馴れしかったり媚びているという感じでない。今読むとこの人の器の大きさが良く分かる。

しかし母の再婚にもーちゃんはどうも歯切れが悪い。
それは、別に成田さんが嫌いというわけではなく、現状十分満足している生活を壊す必要があるのか、という変化への恐れなのである。
この時点でシリーズは七年以上続いており、円熟期に達したと言えるが、モーちゃんの「今で十分幸せ」というのは、ループする時間の中で続いていく『ズッコケ』シリーズそのものを指しているようにも聞こえる。

またモーちゃんの不満は、ラストでも語られるように「親の行動(親の恋愛というあまり見たくない部分)が子供の自分の命運を強制的に決める」という親子関係の窮屈さに対する言及でもある。
この辺りの発想は個人主義的というか、子供にしてはかなりドライな発想で、だからこそモーちゃんのキャラとギャップがあって印象に残る。

そんなモーちゃんの物語の裏で、東京観光を楽しめるということを単純に楽しみにもしている二人がバランスを取っている。
東京について調べあげて来たのに、その知識が生かせなかったことを悔やむハカセは笑える。

モーちゃんの生みの父の家・久村家を訪問するシーンは、異常なリアリティと緊迫感を放っている。
子供の頃に読んだ時は、久村一家のあっさりした対応はリアルに感じた。大人というのはこういうもんか、と思っていたのだが、今読むと久村一家の対応はマトモそうでおかしいと感じた。

どうおかしいのか。この一家は、モーちゃんを「他人」として扱っていないのだ。
もしモーちゃんが「他人」だったら、彼らはもっと正式に挨拶なりをしていただろう(どの巻でも、ハカセが新しい人と出会うたびに丁寧に自己紹介する件を読んできているから余計にそう思う)。

しかし久村一家はそうしない。しかし一方で、モーちゃんを「かつての家族」としても扱わない。どういう存在として扱えばいいのかわからないのだ。その結果、だんまりを決め込んでしまう。
そういった久村の心境が、今読み返すととてもよくわかって、だからこそこのシーンは静かだが非常に緊迫していて、とても面白い。

久村妻もまたモーちゃんを受け入れようとしないが、それはすでに縁が切れた他人に自分の家庭に入ってきてもらいたくない、という母親らしい縄張り意識がバリバリに働いているからで、同時にかつて同僚だったモーちゃんの母への対抗意識が含まれているのも言うまでもない。

本当に盛り沢山なシーンで、昼ドラならここで皿の数枚でも割れる修羅場になりそうだが、『ズッコケ』は極めてケレン味のない穏やかなシーンとして成立させているあたりが見事だ。
久村家から帰ったあと、モーちゃんが風呂に入っている間にハカセとハチベエが二人で会話するシーンは、「男の友情」という言葉がよく似合う。

結局、モーちゃん母の離婚の真相は藪の中である。
しかしミドリ市に帰ってきてから、モーちゃんが母親とお菓子を食べるシーンが素晴らしい。

モーちゃんはここで読者が一番知りたいであろう、「本当にお母さんが暴力を振るっていたのか」を聞かない。母も問わない。語らずとも分かることがあるのだ。
二人の極めて繊細な空気を取りつないでいるのが「お菓子」である。普段モーちゃんがお菓子ばかり食べているシーンを繰り返し読んできた読者だからこそ、このシーンは印象的だ。

『児童会長』『株式会社』とは毛色はまったく違うが、大人になってから読むと非常に深い示唆を与えてくれる作品ということで、両者と並ぶA評価とした。


謎のズッコケ海賊島 C


複雑な人間ドラマだった前作の反動か、今回は宝探しに悪者に、とトム・ソーヤー的なシンプルな冒険もの。

しかし前半の暗号解読はミステリー的なテンプレの枠に収まってしまっている気がするし、後半も冒険もののわりにはあまり爽快感がない。
個人的には、大人が子供の「敵」になる展開があまり好きではない。子供相手に本気になっている大人は「大人げない」ため、魅力的に見えないのだ。


ズッコケ文化祭事件 A


文化祭をテーマにした作品らしく、とにかく三人組を始めとしたクラスメイトたちが魅力的に描かれているのが素晴らしい。

ハチベエがメインに話だが、モーちゃんもちゃんと役をもらっていたり、ハカセも裏方として活躍していたり、すべてのキャラがそれぞれの持ち味を活かしている。
たとえば細かいところだが、劇で使う消火器を二つもらって、そのうちの片方をリハーサルで使う、というリアリティが良い。

一方で楽しい文化祭の裏にあるのは、新谷敬三という「売れない童話作家」のドロドロした心理である。
もちろん児童文学としては異色のテーマであり、しかもクライマックスで彼と直接対決するのが三人組でなく宅和先生というのも更に異色。

「脚本を書き換えたことについて、新谷氏が怒らずに、笑って許してハッピーエンド」でも話としては成立するはずだが、あえて新谷氏を激怒させる「嫌な」展開を選んだわけだから、そこには確かに作者のこだわりがある。

大人もまたひとりの弱い存在でしかなく、プライドやエゴに悩まされる存在である、ということが今読むと良く分かる。

「ぼくは、文学のこと、よくわかんないけど、新谷さんの作品て、なんていうか、あまりにもお話って感じなんだよなあ」
「しかたねえだろ。あのひと童話作家だもの」
「そうじゃなくて、あのひとの作品、ぼくらとはべつの世界の子どもに読ませるみたいな……」

新谷氏の童話は幼稚過ぎて、ハチベエたち六年一組の生徒たちにはまったくウケない。
「童話だからこんなもんか」とモーちゃんは思うが、しかしまさに彼の童話がウケないのは「童話はこんなもん」という前提に立っているからだ。
これまで指摘してきたとおり、『ズッコケ』は子供を子供扱いしない真摯な態度だからこそ子供たちの心を掴んだのだ。


驚異のズッコケ大時震 C


またタイムスリップものということで、『時間漂流記』のブラッシュアップ版である。

前回の反省を踏まえてか、今回は次々と舞台が変化していくため間延びはあまり感じない。
しかし三人組が常に受け身の姿勢でしかないのは変わりなく、やはり物足りなさを感じる。
三人の適当なイメージが影響して、変なものが現実に投影される、というのは『心霊学入門』と同じで作者が好むモチーフのようだ。

どうでもいいが、『ズッコケ』シリーズは何かにつけて、眠って起きる、という描写が多い気がする。
『時間漂流記』も『恐怖体験』も『山岳救助隊』も『家出大旅行』も……非日常に来ても人間は眠たくなるし、眠れば起きる、ということだろうか。


ズッコケ三人組の推理教室 B


ミステリーものの第三弾だが、これまでの中でもっとも完成度の高い一作と言えるだろう。

最初はクラスメイトの猫探しという「日常の謎」が、やがて大きな犯罪の捜査に繋がっていく。
小学生にとってリアリティのある丁度いい塩梅の事件で、過去2作からのブラッシュアップを感じる。

この巻では「大人」がいい味を出していると感じた。
たとえば陽子の母親。
普通の児童文学の推理ものでは、子供たちだけで捜査して大人には相談しないか、大人に訴えても根拠が無いと一笑に付されるのがオチだが、この話では母親はちゃんと子供たちの話を聞いて、しかも納得している
子供の言葉とはいえ、ちゃんと証拠があって理屈が通っていれば大人もそれに耳を貸す。大切なことだ。

ラストでは、ペットを溺愛する人々にちょっとした冷水を浴びせるのもこのシリーズらしい。


大当たりズッコケ占い百科 A


小学生の時は暗くてあまり読み返せなかったが、今回再読してもっとも評価の上がった一作でもある。ホラーというよりもサイコスリラーというべき異色作。

本作ではこれまでになかった、クラスの生徒同士のいがみ合いが描かれていくのだが、これが面白いのは単純にゴシップ趣味である。
シリーズ物の強みで、すでに脇役のクラスメイトたちが書き込まれているから、世界が書き込まれていて、リアリティがそれだけで増す。

たとえば佐々木絵美の友達が安藤圭子だというだけで、読者にとってすでに佐々木絵美は「他人」ではなくなる。
安藤圭子はこれまでにも何度か登場している「身内」なので、佐々木絵美も「内輪」の対象になるわけだ。

そして、知り合いのうわさ話やら恋の鞘当てやらのゴシップほど面白いものはないだろう。
この巻を面白く読んでいる読者も、実はクラスで佐々木絵美のことをうわさ話している生徒たちと同じ共犯関係にあるのだ。この構造が面白い。

何より見事なのが、展開が最後まで読めないこと。
話がどういうふうに着地するのがわからないから、いい意味で不安になる。ホラー作品としても一線級だ。

占いにハマって廃人と化してしまった桐生という中学生の描写もリアルで怖いが、一番怖いのは市原弘子だ。
桐生はこの巻限りのゲストキャラで、他の巻には登場しない。しかし市原弘子は6年1組の生徒である。つまり他の49巻(どころか『中年三人組』にまで)にもしっかり出ているのだ。

市原弘子はしっかりと、クラスメイトのイラスト一覧にも載っている。
『占い百科』を読み終えた後だと、この市原弘子の顔がとても不気味に見える。
ゴマ粒のような黒い点の目が、能面のように無表情でどうやら笑っている……。

『ズッコケ』シリーズは(安易なハッピーエンドこそ少ないものの)、基本的に余韻が残る後味のいい終わり方をする作品が多い。
しかし、この巻だけはとにかく救いがない。事件の真相はわかっても、本質的にはなにも解決していない。
なにより、市原弘子というどす黒い存在(かつオカルトにハマっていて頭がおかしい、しかも知恵が働く)が同じクラスにいて、これからもずっといる、というのが非常に後味が悪いのだ。

この後味の悪さを、子供の頃はちゃんと味わうことができていなかった。『結婚相談所』と並んで、再読した価値のある一冊だった。


ズッコケ山岳救助隊 C


花山町を舞台にした作品が続いたが、久々のシンプルな「冒険もの」である。

序盤は山登りのエピソードを淡々と描いているだけなのだが、それだけでも結構面白い。自分は子供の頃に山登りなんてした経験はないが、それでも何か懐かしさのようなものを感じる。

一方で終盤の誘拐のエピソードは、ややとってつけた感じがする。
『ズッコケ』の小学生は、ハカセをはじめみな精神年齢が高いが、この巻は特にみんな立派過ぎる。現実だと大人でもこれだけバイタリティを発揮できるかどうか。大騒ぎしているだけの湯原の奥さんの反応が一番リアルに感じた。


ズッコケTV本番中 B


これも今回再読して評価が上がった一冊。

『ズッコケ』シリーズはメインの三人が男ばっかりなためか、毎回女の子のゲストキャラ(しかもちゃんと「可愛い」という描写があるあたり、男子読者へのサービス精神を感じる)が登場するが、この巻の池本浩美はその中でも特に印象的だ。
「せんぱ~い」と甘い声で慕ってくれる後輩の女の子は男の子のロマンだが、池本浩美はそういう子として描かれている。

しかし、この子は「天然ブリッ子」ではないかと思う。
ブリッ子というのは「可愛く思われるために意図的に演技する」子のことだが、池本浩美「相手に気に入るれるため、どんな相手にも無意識で媚びるような態度をとってしまう」子ではないか……という気がするのだ。

今作ではシリーズで初めて「委員会」という上下関係のあるシステムが登場する。
「先輩」たちに懐いてくる浩美というというのは「上下関係」のポジティブな側面だが、一方でやたらと偉そうな亀井という男子や、三人組がビデオ番組を撮影していることを「素人」と馬鹿にする藤井里香など、上下関係のネガティブな面も描かれている。

忍という男子だけはモーちゃんに割と好意的でちゃんとバランスがとれているように見えるが、その忍も会議の場では浩美を非難する側に立つなど、結局委員会の側にいる、というのがなんともリアルで面白い。
『占い百科』の市原弘子のどす黒さに比べて、放送委員会の連中は現実にありそうなリアルなイヤさなのだ。

さて、この巻のハイライトはハチベエとモーちゃんのケンカシーンだが、この中心にはもちろん浩美がいる。
ケンカの発端は、浩美が委員会をサボったことをハチベエが漏らしたことである。

ハチベエは、委員会をサボるのを悪いことだと思っていない。むしろ、五年生をこき使ってばかりの放送委員会のやり方に反感を持っていて、それに一矢報いた浩美を偉いと思っている。だから藤井里香にもそのことを平気でしゃべる。
対してモーちゃんは委員会をサボるのは悪いことだと思っているから、それをばらしたハチベエは告げ口をしたということになる。

では肝心の浩美はどう思っているのか。実は浩美自身にもよくわかっていないのだ。これが面白いところだ。
浩美は委員会をサボったが、それは六年生たちに反抗する確固たる理念があってやった行為ではない。
彼女が委員会をサボったのは、もちろん委員会に出ていてもやることがなくて退屈だからだが、もうひとつ、ハチベエとハカセを喜ばせたかったから=二人に媚びていたからでもあるのだ。

前述の「天然ブリッ子」ぶりがここで発揮されている。彼女の行動原理は常に「みんなに好かれたい」という欲求から来ているのだ。
というように読むと、本作は少年たちが初めて「女」を取り合って(正確には「女」の「解釈」を巡って)対立する瞬間を描いた作品とも言える。

結局、ハチベエとモーちゃんは仲直りしないまま話が終わってしまうのだが、これはむしろ非常にいい余韻を残した終わり方だと感じた。
浩美が藤井里香たちとあっさり打ち解けてしまっているのとは対照的で、『占い百科』のラストと同じく、表面上は仲がよくても裏でどうなってるかわからない、という不気味さを感じさせる。
そう考えると、むしろ意地を張ったままのハチベエたちのほうがよっぽど健康的であっさりしていると言えなくもない。

2人が喧嘩したままでもいい余韻が残るのは、ひとえに長年シリーズが続いてきたからだろう。
三人の絆を読者も一緒に追ってきて知っているから、まあ大丈夫だろう、きっと仲直りできるだろう、と信頼感を持って読み終えることができるのだ。


ズッコケ妖怪大図鑑 C


SFであり、ホラーであり、また『探検隊』のような歴史調査もの要素もある一作。

三人組が(幻覚とはいえ)初めて「死」の恐怖に脅かされるというシーンはなかなか緊迫感があるし、しかもそれが市営アパートという日常の延長で起こっているとのはリアリティがあって怖い。

だがリアリティを重視したせいか、全体的に展開が地味にまとまってしまっている点は否めない。
六号棟の人々が衝撃的な体験をしているのにみんな口を潜めている、というのは確かにある意味リアルではあるが、そのせいで話がアパートから外に広がらなかった印象だ。


夢のズッコケ修学旅行 B


印象的なのは、『ズッコケ』としてはかなり珍しく「性」というテーマが描かれているところ。

具体的には、灯台の階段を登っているハカセが上の新井陽子のスカートの中を見てしまう印象的なシーンである。このシーンで果たしてどれぐらいの男子小学生が性に目覚めたのだろうか……。
自分も小学生の頃は、「性」に対してそこしれない不安や罪悪感を覚えるような子供だったから、ハカセの自己嫌悪に陥る反応はとても共感できた。

これまでは児童小説ということもあって「性」の話題はタブーだったが、男子たちにとってもっとも興味があり、本音で語り合いたくなるのも「性」の話題だ。
修学旅行の夜は、いつもと違う非日常な雰囲気に誰もが興奮しているから、普段は恥ずかしくて言えないようなことでも言えてしまう。
だから修学旅行の回で「性」がテーマになるのは極めて自然な流れなのだ。


ズッコケ三人組の未来報告 B


シリーズの折り返し地点であり、ひとつの仮想的な最終回と言える巻である。
クラスメイトたちの大人になってからの職業が細かく設定されていて、作者の設定フェチな部分がよく出ている。

上手いのは三人組の別れというシリーズのタブーを、すでに「過去のもの」としてさらっと流してしまっているところだ。どうしても重たくなりがちな「別れ」のシーンを鮮やかに処理してしまっている。

三人組は小学校を出てもずっと一緒に仲良し、というわけではなく、中学に入ってすぐにハカセが引っ越してしまうというリアリティ、そしてそれを過去のものとして受け入れているハチベエたちの佇まいがまさに「大人」なのだと小学生の頃は思ったものだ。

本作はあくまで「夢オチ」なので、実際の三人組がどのように別れを迎えるかは(この時点では)まだわからない。
しかし、どんな作品も必ず終りが来る。長期連載作品の多くが途中からマンネリに陥ってつまらなくなってしまうのは、その「終りがある」という物語の約束を反故にしてしまっているからだ。

その意味で、シリーズの半分の地点で「終わり」を予め描いたのは大きな意義がある。
たとえば『ドラえもん』もコミックス6巻のラストで一度「終わり」を描いたが、すぐに「帰ってき」てしまったから「終わり」ではなくなった。
一度終わらせて、しかし続ける、この矛盾した二つを両立させる方法が「夢オチ」だったということだ。


ズッコケ三人組対怪盗X C


挿絵が変更された「後期」の第一作はシリーズ唯一の連作。

作中でも言及されているように『怪人二十面相』シリーズへのオマージュで、警察がちゃんと事件捜査に介入するためリアリティはあるが、そのせいで「ただの小学生」の三人組が捜査に混じっていること、あまつさえ警察も手を焼く怪盗Xをあっさり出し抜いてしまうというフィクションの部分がありえなく見えてしまう。

やはり小学生がミステリーをやるのであれば、猫探しのような「日常の延長」を題材にしなければリアリティを保つのは厳しい。
なにより三人がまったく「ズッコケ」ずに、ちゃんと推理できてしまっているところが最大の問題だ。これでは『ズッコケ』である意味がない。


ズッコケ三人組の大運動会 C


子供のころはあまりいい印象がなく、あまり読み返さなかった巻。

その理由は、読み返してみて改めて思ったのだが、浩というキャラがとにかくイヤなのだ。
意固地で気むずかしくてそのくせ他人に対して攻撃的という本当に面倒くさいヤツで、作中でもそう評価されている。つまり作者の狙い通りに描かれているということだ。

例えば、浩は勘違いから勝手にモーちゃんを敵視して殴りつける。しかしその後、間違いを指摘されてもない相手の意見の弱い部分を目ざとく突いて「自分は間違ってない」と抗弁するあたり、なんとも抜け目がなく手強い。
「警察」という言葉を出してくる辺り、「チクらない」という子供同士のタブーをあっさり破っており、小学生の読者にとって非常に癇に障る。
しかもちょっと責められるとすぐに泣く。そうすることで相手を「悪者」にして攻撃を回避する。

児童文学史上最も小憎たらしい少年な気がする。これも作者の筆致と人間観察のなせる技か。


参上!ズッコケ忍者軍団 B


『児童会長』では政治、『株式会社』では経済が描かれたが、この巻のテーマは「戦争」だ。

勘違いしそうになるが、「戦争ごっこ」ではなくて「戦争」だ。
この巻で描かれる子供たちは、遊び半分でコンバットごっこしているわけではなく、本気で自分たちの領土(と自分たちが信じる場所)から「敵」を排除するために武力を行使している。アナロジーではない、純然たる「戦争」を行っているのである(校区という名の「領土」未定地域が紛争の火種となる、という設定もいやはや)。

さて、那須正幹作品をある程度読んでいれば分かることだが、作者の政治思想はいわゆる左派である(もっとも1942年生の作家という「知識人」で、しかも広島出身で自らも被曝している、とここまで揃って左巻きにならない方が珍しいが)。
『ズッコケ』シリーズでもチラチラそういう思想は見え隠れするし、他の作品ではたとえば『詐欺師たちの空』なんかは政治的なスタンスが色濃く出ている。

にも関わらず、この巻にでは安易な平和主義が一切顔を出していない。これは再読して少し驚いた点である。
誰一人として「暴力で解決するのはダメだよ」みたいな説教臭い台詞を吐かない。
はじめはハカセも話し合いで解決しようとするが、ハチベエたちがヒートアップするにつれてさっさとその考えを諦める。

最後は「敵」とも仲良くなって手をつなぎ合って終わる、ということにはならない。
なぜならおそらく、児童小説のメインターゲットである子供は、そういった欺瞞に極めて敏感だということを作者は理解しているからだろう。
そういう説教じみた発想の気配を感じると、子供はすぐさま本を放り投げてしまう。

事実、この巻は公式の人気投票では上位に位置する人気作で、「アタック3 極道編」も顔負けの「暴力的」で「非良識的」な物語だが、そこにエクスキューズを入れず、リアリズムに徹して最後まで書ききったことに価値があると言える。

そして森という中学生の存在が、単純な暴力的物語に一抹の深みを加えている。
同級生がみんな飽きたあとも一人だけエアガンにハマっているというのも寂しいが、しかしそんな彼の存在が親が共働きの小学生たちの受け皿にもなってるという両面性。
しかしハチベエたちはそんなことは気にせず、あくまで「自分たちの領土」を奪い返すために戦う。これが戦争である。


ズッコケ三人組のミステリーツアー C


『怪盗X』と同じく、警察がしっかり時間の捜査に介入し、三人組はあくまで参考人としてその証言をするだけ。やっぱり『ズッコケ』である意味が薄い。
小学生が殺人事件に関わるとなるとこういう関わり方がリアルなわけだが、あまりに地味すぎる。

10年前の事件の記憶がキーになる、というテーマも、小学生の読者にはあまりピンと来ない気がする。
表紙の空が真っ黒なせいか、全体的に重苦しい印象の一冊。さやかというゲストヒロインの天然気味な言動の可愛さが清涼剤になっている。


ズッコケ三人組と学校の怪談 C


『妖怪大図鑑』をブラッシュアップしたホラーもの一冊。
ハイライトはやはり学校に具現化した七不思議が現れるシーンで、「教室がテロリストに占拠されたら」式の妄想が好きだった読者にとっては楽しい展開である。

「昔は三階がなかったから、化け物たちは三階には来られない」と論理的なルールで妖怪に対処するのも、このシリーズらしくて面白い。
しかし派手な展開に反して、さすがに児童文学なので、ハリウッド映画のようにハチベエたちが銃をぶっ放したりチェーンソーでモンスターと戦う……という展開にはできず、やや尻すぼみな終わり方になってしまっている気がする。

地味過ぎても派手過ぎてもダメ、まことにバランスというものは難しい。
残念ながら、この辺りからシリーズはピークをすぎて下降線をたどり始めていると感じる。


ズッコケ発明狂時代 C


「未来の放送が観られるテレビ」というSFギミックが中心。この手の物語の王道は抑えているが、それだけで終わっているという印象である。

話の中で夏休みがまるごと過ぎているのに、あまり中身がない、というのがこの巻を象徴している。ある意味、リアルな夏休みの雰囲気を表現しているとも言えるが……。
冒頭のゴミを回収するハカセの描写が一番面白い。


ズッコケ愛の動物記 C


『ドラえもん』など、子供が主人公の物語では定番の、ペットを飼おうとする話。
子供はペットを飼いたがるが、それは、子供は自分の思い通りになる領域が少ないから、数少ない「自分のもの」=所有という概念にこだわるからだろう。

どちらかと言えばこの巻はかなりリアリティを重視していて、派手な展開は無く、例えば動物たちが人間の感情を代弁するような都合の良い行動を取ったりはしない。
あくまで静かに展開して静かに終わる。「愛の」という甘ったるいタイトルに反して、動物を飼うという行為の「静かさ」が印象的だ。


ズッコケ三人組の神様体験 C


ラスト近くで急にハチベエが神秘体験し「神様」のビジョンを幻視してしまうという、非常に幻想的な展開に当時小学生の自分は面食らった。異色作と言えるだろう。

もっとも『ズッコケ』シリーズらしく、「脊髄を痛める踊りの振付が幻覚を生じさせた」というちゃんと科学的なオチが付くのだが、それにしても小学生の読者には渋すぎる話に思える。
サブエピソードのお神輿作りも特に見せ場がなく、題材の選び方にネタ切れを感じてしまう。


ズッコケ三人組と死神人形 C


『ミステリーツアー』よりもさらにハードな本格ミステリー風舞台仕立て。

『かまいたちの夜』よろしく王道の雪山のクローズドサークルもので、『推理教室』から遠く離れてしまったという印象。
もっともこの巻は、子供が全く出てこないプロローグからして、『ズッコケ』でなくてもいい、と言われること前提で書いているように見える。

しかし自分はミステリーにはあまり詳しくないのだが、はじめの狂言殺人が死神人形の殺人とは別に「たまたま」でした、というのはさすがにちょっと無理があるのでは……?


ズッコケ三人組ハワイに行く C


今回のテーマは「海外パック旅行」!
……うーん、一応「大人の世界」ではあるが、あまりワクワクする設定ではない。案の定、話もあまり膨らまない。

三人は当然ながら案内通りにハワイを観光するだけで、徹底して受動的にならざるを得ない。まあパック旅行というのは安全で安心なかわりに退屈なものなので、仕方ないとも言える。

中盤からはシリーズおなじみのかわいこちゃんが登場して、あれよあれよという間にハチベエが逆玉に乗りそうになるが、人違いだったという拍子抜けのオチ。
しかし「八百屋はハチベエの父親が始めた」というすごく身近な情報をハチベエがすっかり忘れていた、というのはなんだかリアルな理由で、そのおかげであまりご都合主義感はない。


ズッコケ三人組のダイエット講座 C


痩せたモーちゃんのイラストが何だか怖くて、子供の頃はあまり手に取れなかった一冊。
これに限らず、自分はマンガのキャラが病的に痩せたり太ったりした姿というのが生理的に苦手である。太ったり痩せたりというのは生命維持の根幹に関わる部分だからだろうか。

ちょっと面白いのはハカセとハチベエの対比で、ハカセは論理、ハチベエは運動とそれぞれの得意分野で友達のダイエットを手伝ってやるのだが、両者の違いが、モーちゃんがダイエットをやめようとした時に出る。

ハチベエはあっさり「あいつが嫌って言うんなら無理には言えない」とさっさと諦めるのだが、ハカセのほうがしつこく「お前の為を思ってやってるんだぞ」と食い下がる。
一見、自分勝手な性格のハチベエの方が結果的に相手の判断を尊重しており、対して相手の為を思ってやっているという建前のハカセのほうが、モーちゃんに自分の意見を押し付けているのだ。
ハカセにはしばしばそういうところがあって、何かをするために研究するのではなく、研究結果を活かしたいがためになにかをする、と行為自体が目的化していることがある。

モーちゃんがダイエットを決意するきっかけがやや弱い気がする(小学生男子がダイエットにそれほど深刻になるだろうか?)が、うさん臭いダイエットクラブの描写は今読んでもリアリティがあるし、モーちゃんの拒食症を治療するパーティーのシーンはなかなか感動的だ。
『中年三人組』でモーちゃんがアメリカ人みたいな超肥満体になってなくてとりあえず一安心である。


ズッコケ脅威の大震災 B


シリーズの人気投票では意外にも?上位にランクインしている一冊。
なぜかを考えたのだが、おそらく本作で描かれる「大災害」は、小学生の読者にとっては非常に魅力的な「非日常」に映るのだろう。

ハチベエが父親を崩れた家の中から救助したり、横倒しになった家に入っていくモーちゃんたちのシーンはワクワクする。
実は同じようなアクションシーンは『山岳救助隊』や『探検隊』でやってきているわけだが、この巻の方がずっと面白い。

小学生が一番リアリティを感じる舞台は、やはり「自分たちの町」なのだ。この巻では、見知ったはずの世界が大地震によって突如として「冒険」の舞台となる。たとえ不謹慎と言われようが、興奮するエンターテイメントなのは間違いない。


ズッコケ怪盗Xの再挑戦 C


シリーズ唯一の連作だが、タイトル通り前作からそのまま時系列が繋がっている。
しかし正直なところ、怪盗Xは「変装が得意な怪盗」のステレオタイプそのままで特にオリジナリティや魅力が感じられない。

三人組が盗みの手先に使われる、という展開はショッキングだが、「催眠術」が万能すぎてややご都合主義感がある。
ここは普通なら三人組が共犯かと疑われる展開のはずだが、特にお咎めなし。警察の物分かりが良すぎるのが逆に不気味で、「警察も催眠術をかけられている!?」と変な深読みをしてしまった。


ズッコケ海底大陸の秘密 C


久々のSFもの。
「歴史の影で運営されている謎のコミュニティに拉致される」という展開は『山賊修行中』の同工異曲だが、今回は海底都市を舞台としている分展開が派手に。だがその分リアリティは失われてしまった。

映像映えはするだろうが、正直なところ小説で海底都市の描写をされても光景のインパクトが伝わりづらい気がする……。
また「海底にも地上人がいて、地上と同じような生活をしている」という設定のせいでさらに設定の意義が薄れてしまっている。
環境保護がどうたらと説教臭いのも合わせて、藤子F存命後期の『大長編ドラえもん』っぽいと感じた。


ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー B


三人組がタイムスリップする話……ではなくて「自分史」を作るという、地味すぎる、しかし「調べる」ことが大好きなハカセ=作者らしいエピソード。

しかし、小学生が自分の過去を調べたいという欲求をどれぐらい持っているだろうか?
そもそも小学生には振り返るべき過去が圧倒的に少なく、そもそも過去と現在という概念自体がごっちゃになっているふしがある(自分がそういう小学生だった)ため、小学生の読者にとっては共感しづらいエピソードだろう(この巻が野間児童文芸賞という「大人」から送られる賞を受賞しているのがなんとも皮肉だ)。

個人的なこの巻の見どころは、ひき逃げ事件の真相……ではなく、再会した民ちゃんが記憶と違ってなんだかハキハキしている子になっている部分である。
(モテない)男の子というのは好きな女の子のイメージを勝手に頭の中で固定化しがちなので、こういうイメージと現実のズレはあるあるで面白い。

また民ちゃんを安易に「遠くに引っ越した」ことにはせず、「隣町」にいることにしたのもポイントだ。
「校区」が全世界の小学生の今は難しいかもしれないが、中学生になれば簡単に行ける程度の距離。小学校の卒業直前という微妙な時期を描いた、微妙な「距離」感の描き方が上手い。


緊急入院!ズッコケ病院大事件 C


いきなりヤクザだの殺し屋だの「大人」の話が延々続く。『ズッコケ』はほぼ関係ないが、『死神人形』と違ってこれが結構面白い。
ヤクザの下っ端のキャラが、(別に奇をてらっているわけでもないのに)細部が魅力的なのだ。作者の児童文学にとどまらない技工の高さが味わえる。

この一章まるまる使ったプロローグのおかげで、あとの展開はシンプルでも緊迫感がでる。
ただ現代日本においては、小学生が病気をしたらとりあえず親が病院に連れて行くというのが当たり前だし、病院に入ってしまうとあとは医者の問題なので、三人組がドラマに能動的に参加できないという構造的な問題があるのは致し方ないところ。

釣りにあまり興味がなく付き合いでついていったハカセが、できるだけ安いルアーを借りる(無くした時の損害が少なくなるよう)という小学生とは思えない気の使い方を見せるところとか、でもいつの間にか自分でルアーを買いたいと言い出すほどハマっている、という細部がお気に入り。


ズッコケ家出大旅行 B


低調な後期の作品の中ではなかなかの佳作……という評価が多い一作。個人的にもそう思う。
のび太よろしく「家出」は子供向け作品においては定番の題材だが、『ズッコケ』の家出はきちんと計画を立て、最終的な出口戦略まで考えてから決行するあたりが流石。

とは言えいまいち盛り上がり切らないのは、三人組はすでにこれまでのシリーズで、家出よりもずっと凄いこと、つまり無人島で生活したり悪者に捕まったり山で遭難したりしているからだろう。
シリーズをずっと読んできた読者にとっては、いかんせん刺激不足に見えてしまうのだ。思わぬ弊害である。

だからむしろ見知らぬ街でステーキを食べる、といったささやかな描写の方にこそ憧れを覚える。
家出された両親たちのリアクションがかなりリアルで、作者のこだわりを感じたのも面白かった。

しかし終盤、三人の所持金が同時になくなるというのはかなりご都合主義的。
ホームレスとの共同生活は作者の思想を感じさせるが、特に押し付けがましさはなくバランスが取れた筆致に感じる。


ズッコケ芸能界情報 B


この巻あたりから子供の頃に読んだ記憶が薄く、今回がほぼ初読となる。

しかしこの巻はなかなか良かった。キーパーソンとなる結城五郎という事務所の社長がいい。
元俳優で今も中年ながら男前、しかし経営している芸能事務所は所属タレント数人……という児童文学とは思えないしみったれたリアリティがいい。
特に彼がハチベエたち子供に急に砕けた言葉遣いで話し始めるあたりは、「子供たちに対しても気さくな大人」を演出してる感じがくすぐったくて、いろいろ人間味を感じる。

よくマンガなんかで「憧れのクラスメイトは芸能界でも活躍しているトップアイドル」みたいな設定があるが、むしろ芸能界で面白いのはトップアイドルではなくて、この作品で描かれるような地べたで奔走しているような人々の方だと思う。
「芸能人」は決して特殊な人間ではなく、実は我々「一般人」と地続きなのだ、というテーマは子供の心に残るだろう。

途中で挿入される吉行マリヤという少女とのエピソードも印象的だ。
吉行マリヤは父の会社が倒産すると芸能界からフェードアウトし、その後も一切言及されない。ドライで寂しい話だが、ある種の余韻も感じる。


ズッコケ怪盗X最後の戦い C


怪盗Xシリーズ第三弾は新興宗教を交えた三つ巴の戦い。

シリーズを重ねているため、読者は怪盗Xに感情移入して、むしろ新興宗教に痛い目を見せて欲しい、と心理が逆転してしまうのがミソ。
しかしXが草履を盗む展開に工夫がなく、最後まで盛り上がりに欠けた印象。Xの私生活をはっきり描写せずに匂わせるという手法は高度だが、やはりもう少しガッツリ描いて欲しかった気もする。


ズッコケ情報公開(秘)ファイル C


今度は三人組がオンブズマンになるぞ! と児童文学としては渋すぎる題材。2002年当時にしてはわりと先進的?なPCとフロッピーという小道具を使っていたり、いろいろ挑戦的。

しかしハチベエが警察に素直にフロッピーを渡さなかった理由にやや無理があり、またフロッピーを盗まれてもPCにコピーしてあるから大丈夫、という拍子抜けしてしまうようなオチ。デジタルの利便性の勝利か……。

一方で「一見オンブズマンに見えた人が実は……」とか「ハチベエを追っていたヤクザな連中は実は……」といった善悪にまつわるどんでん返しが仕組まれており、「オンブズマン=正義」という単純な啓発パンフレットになっていないあたりは『ズッコケ』らしい。


ズッコケ三人組の地底王国 C


意外にも初の本格ファンタジーもの。
しかしファンタジーとはいえ、人間の身体が小さくなったらどうなるのか(熱が出る、身軽になる、体感時間が長くなるなど)を科学的なアプローチで描いているあたりがこのシリーズらしい。

だが、それならちゃんと「もし小人の世界があったら」というイフの世界をしっかり構築してもらいたかった。
特に三人が「選ばれし勇者」としてあだ名も伝わっている、というのは必ず合理的なオチがあると思って読み進めてたのに、投げっぱなしで終わってしまったのに驚き。

ズッコケ魔の異郷伝説 C


今回は三人組だけでなくクラスメイトと共に縄文時代にタイムスリップすることに。一見ワクワクする展開だ。
しかし新井陽子が神様に取り憑かれてナビゲーター役になってしまう。いかんせん神様なので全能すぎて、彼女の言うとおりに行動すれば特に苦労なく問題が解決してしまい、さっさと現代に戻ってきてしまう。

作中でも「陽子の言っていることは意味不明」と言われていたが、まさにその通り、終始陽子以外のメンバーと読者は終始蚊帳の外という印象。


ズッコケ怪奇館 幽霊の正体 C


のっけから小学生にとってどれ位興味があるのか怪しい新車購入のエピソードを続けるあたりがなんとも『ズッコケ』。

内容は久々のホラーもの。しかしこれまでのホラーものが、幽霊や妖怪という超常現象を「実はあるかも」とオチを付けてきたのに対して、今回は「幽霊の正体見たり枯れ尾花」以上でも以下でもない。
これでは『心霊学入門』『恐怖体験』『学校の怪談』で「本当の超常現象」を何度も経験しているシリーズ読者にとっては甚だ肩透かしだろう。

ズッコケ愛のプレゼント計画 B


50巻完結に向けて失礼ながらやっつけ仕事気味に見える最後期だが、この巻はなかなか面白かった。

ハチベエがお菓子コンテストの審査員になったので、女の子から急にチヤホヤされ始める……という展開はベタだがやはり楽しいし、第一小の美少女三人組との鞘当もこれまでになかったラブコメ要素で面白い。

更に終盤にも矢継ぎ早に美少女キャラ(しかもそれぞれ違うタイプとして書き分けられている)が登場して、なんだか別の作品みたいだが読後感は悪くない。
作者のあとがきにもあるが、長年続いたシリーズの終わりなのだから、最後ぐらいこれぐらいいいことがあってもいいだろう、というハチベエと読者に対する「サービス」なのだろう。
卒業寸前の二月という感傷的になりがちな時期の雰囲気を捉えた、暖かい一作だ。


ズッコケ三人組の卒業式 C


ストーリーは第一作の「三人組登場」を再演するかのようなベタな犯罪もの。これはおそらく意図的だろう。
しかし盗んできたデータをわざわざ小学校の敷地に埋めるのは明らかに無理がある。これまでのミステリーものと比べて一気に幼稚になってしまった。

宅和先生が教育委員会に行くかどうかで悩むというエピソードも完全に小学生の理解の範疇を超えているだろう。
翌年にすぐ『中年三人組』が始まるため、最終回につきものの寂しさがないのは、いい部分でもあればもったいない部分でもある。


ズッコケ中年三人組


中年となった三人組の姿が描かれる続編シリーズだが、冒頭からおそろしく苦い現実味にあふれた始まり方になっている。
『未来報告』ではハチベエの八百屋は駅前の巨大ショッピングモールに吸収ということになっていて、これでもけっこうリアルな話だが、今作では吸収どころか八百屋は廃業してコンビニのフランチャイズ経営に方向転換という生々しすぎる設定。

しかし実は一番落ち込むのは、ハチベエがバーのママ入れあげていて、古女房の圭子をほったらかしにしているところだ。
読者にとって安藤圭子はもちろん慣れ親しんだサブキャラクターで思い入れが強いキャラだからこそショッキングである。

ハカセは考古学の研究者の夢破れ、学級崩壊気味の中学の教師というこれまたリアルにうんざりする「未来」。
(研究者だの教授だの博物館の学芸員だのというのは、倍率や難易度で言えば実は大企業に就職するのと同じかそれ以上に難しい進路ということを小学生は知らない。)

おまけにモーちゃんにいたっては40歳にしてレンタルビデオ屋の深夜バイトという有り様(もっとも、ずっと務めていた会社が倒産したという理由付きだからまだ救いがあるが……)。
ジャンクフードの激安バーガーを食べるのが唯一の楽しみという描写からは、かつてのモーちゃんのような食事の幸せさが感じられない。

このように、読んでいるとどんどん落ち込んでくるような設定だが、いちおう中盤以降からは小学生のときと同じようにいつもの空気になって、それはなんというかありがたかった。


ズッコケ中年三人組 age41


有名占い師としてテレビ出演しているマコと再開するという『マル秘大作戦』の続編的作品。
本作の刊行は2006年、ちょうどテレビで占いやらスピリチュアルやらが流行っていた時期である。

ホテルでマコに再会するシーンは『未来報告』のシーンと重なるが、『未来報告』に比べれば展開はあっさり目で、長くなったページ数をもてあましているように見える。
ハチベエがバイトの子にちゃんとしっかり指示を出して「いい店長」やってるのにちょっと安心。


ズッコケ中年三人組 age42


モーちゃんの娘のいじめ事件とハチベエの息子の進路問題がテーマだが、どっちも、いかにも大人(というかすでに作者は老年の域)の目線で描いた学校小説という感じで目新しさはないし、主人公の三人組と比べれば「脇役」のエピソードなので、『中年三人組』でやる理由があまりない。
せっかく50巻も続いたシリーズならではの強みが生かせていない、読み進めるのが厳しい一冊だった。


ズッコケ中年三人組 age43


前巻に比べれば、王道の法廷ものらしく、事件の真相はいかに、と読者の興味を持続させられるのである程度は読みやすかった。
とは言えオチは特に驚きもなく、証券マンの男もやたら詳しく描写されているので何かあるのかとおもいきやそのままフェードアウト。
榎本由紀子が整形して水商売やってる、ぐらいじゃそろそろショックも受けなくなってきた……。


ズッコケ中年三人組 age44


冒頭の釣りに目覚めたハチベエは、久々に『ズッコケ』らしい細部の描写でなかなか良かった。しかし「ツチノコ探し」というテーマは、色んな意味で古すぎる気がする……。
そもそも、もしこの現代にツチノコが見つかったとしても、正直そこまでニュースになるとは思えない。三日もすれば忘れられてしまいそうだ。

むしろ、この手の話で「本当にツチノコをあっさり捕獲してしまう」というオチが予想外でちょっと新鮮である。
ツチノコかと思いきやそんなことはなかった、というありがちなオチもつかず、それがゆえに、「大人」は本当にツチノコを捕まえられたりしてしまう、という妙な「中年」のリアリティがなくもない。
ハカセと新井陽子のやりとりはほとんどラブコメの領域だが、いい意味で『ズッコケ』らしくなくて新鮮だった。


ズッコケ中年三人組 age45


『山賊修行中』の「後日談」を描いた一冊。外界から隔絶したコミュニティで暮らす人々に拉致される、という非日常性の強いエピソードが、中年となって「大人」の視点から描かれ、ついに世間に発見されるという冷静な目線を通じて「過去のこと」として回収される。

前作のツチノコと同じく、不思議や謎がそのまま残るのではなくて、きちんと解明され「世間」に回収されるというのが「大人」の世界なのだ、というテーマが根底に流れているようだ。

関口さんも、何か確固たる信念から身を隠していると言うよりは、成り行きでハチベエたちと再開して成り行きで家族とも再開して……という態度に見える。ある意味無気力な青年のリアルな心理だろうか?
ともあれ、物語としては前巻と並んで、『中年三人組』の中では比較的出来のいい巻だと思う。


ズッコケ中年三人組 age46


『中年三人組』シリーズのアドバンテージは、『ズッコケ』シリーズ全50巻という「遺産」をフルに活用できるという点にある。
そういう意味で、過去の脇役たちが次々と登場するこの巻は、『中年三人組』としてもっとも「ファンの期待に答えた」エピソードだろう。

しかしそこで語られるかつての脇役たちの「現在」は、むしろファンサービスというよりも、ファンが子供時代に持っていた『ズッコケ』のイメージをあえて破壊しに行くような、挑戦的なものだ。
宅和先生の不倫スキャンダルに対して、読者はめぐみさんと同じく拒否反応を見せるかもしれないが、いずれにしても長年続いたシリーズならではの手法でなかなか興味深かった。

とは言え、すでに亡くなった老人の不倫話に神経質になりすぎという気もする。
モーちゃんが不倫に拒否反応を見せるのは自分自身の嫁のエピソードがあるから納得だが、普通はハチベエの反応ぐらいがリアルなところだろう。


ズッコケ中年三人組 age47


『未来報告』で出てきた「市議会議員」というフレーズが現実のものとなったエピソード。
もっとも『児童会長』で描かれた選挙と比べると、展開ははるかに中途半端である。
「大人」の現実社会はドラマチックなんかじゃない、とあえて地味にしている感もあるが、単に物語を盛り上げる気力が作者にないだけのような気も……。

ハチベエがだんだん選挙活動に嫌気がさしてきて、当選してもあんまり嬉しそうじゃないあたり、老齢にも関わらず毎年新作を発表し続けなければならない作者の気力のなさと重なって、なんだかなぁという感じ。


ズッコケ中年三人組 age48


冒頭から典型的な痴漢冤罪が描写され、三人組が濡れ衣を晴らすために奮闘する話かと思いきや、いきなりあっけなく「勘違いでした」で解放されるあたりのスカシっぷりは『ズッコケ』シリーズらしいか。

最新のSNS関連の名詞も登場するが、名前を出しただけという感じで、結局「娘のLINEを罪悪感なしに覗き見する母親」という昔から変わらない親子の構図だけが印象に残った。


ズッコケ中年三人組 age49


前巻に続いて花山町の議会政治周辺をめぐるあれこれがメインとなり、独立したエピソードという印象は薄い。
やんごとなき身分を自称する怪しい男は詐欺師か? それとも本物? という展開も非常にありふれたもので、結末も概ね予想通り。


ズッコケ熟年三人組


いよいよ40年続いたシリーズの完結作……だが、まるでそんな感じがしないのがやはり『ズッコケ』らしいというべきか。

物語としては、中盤に起こる土砂災害(あとがきにもある通り2014年8月に起きた広島市の土砂災害が元)が中心で、3人組も知人が被災し、それぞれの形で災害に関わることになる。
「シリーズの終わり」などという感傷も、現実に起きた災害の前には無力ということだろうか。ある意味「熟年」らしい世界への諦観が漂っている。

ラストシーン、ハカセが『勝手にシンドバッド』をカラオケで歌おうとする直前で物語はフェードアウトする。
気心の知れた友人たちのカラオケをぼんやり眺める……およそ物語的な盛り上がりとは無縁な、しかし「熟年」的な余韻に包まれた幕の下ろし方ではないだろうか。