サリンジャーに関する評伝を何冊か続けて読んだ。
特に興味深かったのは、2009年に起きた『ライ麦畑でつかまえて』の「続編騒動」にまつわるエピソードだった。
『ライ麦畑でつかまえて』の続編とは、2009年にスウェーデンの出版社――セックス辞典やパラパラ漫画のポルノが主力商品――が『60年後 ライ麦畑を通り抜け(60 Years Later:Coming Through the Rye)』なる作品を出版しようとた事件である。作者は「J・D・カリフォルニア」なる名義である。
これだけ見れば「カリフォルニア」が俗悪な悪者、というストーリーになるが、ケネス・スラウェンスキー『サリンジャー 生涯91年の真実』(田中啓史訳)の記述を読んでいくうちに、やや印象が変わってきた。
実際、『60年後』がどれぐらいのレベルの作品なのかは読んでないのでわからないし、作者――J・D・カリフォルニアことフレドリック・コルティング。スウェーデンの作家であり、同書の出版社の創業者でオーナーである――の意図も不明だが、出版差し止めの裁判の経緯を読んでいくうちに、読者によるホールデンの自由な解釈を禁止するサリンジャーの頑強さを感じてしまった。
ホールデンは、すでにちゃちな「続編」の一つや二つで揺るぐことのない、確立した一個の概念であり人物ではないだろうか?
守ってあげなければならない庇護の対象ではなく、確固たる作品なのだ。『ライ麦畑でつかまえて』を守ろうとするサリンジャーは、さながら子離れできない親のように見える。
サリンジャーは作品の単行本に、自分の写真や経歴を載せるのを拒み、表紙もできるだけ単純なものに、出版社による美辞麗句の踊る売り文句も断固として拒否していた。
サリンジャーは作品の単行本に、自分の写真や経歴を載せるのを拒み、表紙もできるだけ単純なものに、出版社による美辞麗句の踊る売り文句も断固として拒否していた。
自作に対して極めて潔癖な作家だったが、それはすべて、作品が作品として独立して読者に読まれることを願うがゆえの方法だった。
そして実際、ホールデンは世界中の読者に、独立した存在として受け入れられた。ホールデンは作中では本音を話して共感し合える同年代の友人はいなかったが、世界中の読者が彼の親友になった。
なのに今や、サリンジャーは自ら、ホールデンは自分の創作物であり、自分に権利がある、と小説や登場人物の存在性を打ち破るような言動に走っている。
スラウェンスキーの著作内でも引用されているが、博物館についてのホールデンの独白を嫌でも連想する。
無垢な存在を崇めながら、しかし至ってすんなりと「いつまでも無垢のままではいられない」とここのホールデンは認めている。
ホールデンは、変わらないガラスケースを眺めながら「変わって」いくからこそ人々の共感を得た。
スラウェンスキーの著作内でも引用されているが、博物館についてのホールデンの独白を嫌でも連想する。
ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたらいちばんいんだよ。そういうのが不可能だって、よくわかってはいるんだけど、まあ残念なことではあるよね。
無垢な存在を崇めながら、しかし至ってすんなりと「いつまでも無垢のままではいられない」とここのホールデンは認めている。
みんなこれっぽっちも違わないんだ。ただひとつ違っているのは君だ。いや、君がそのぶん歳をとってしまったとか、そういうことじゃないよ。それとはちょっと違うんだ。ただ君は違っている。それだけのこと。
ホールデンは、変わらないガラスケースを眺めながら「変わって」いくからこそ人々の共感を得た。
しかしいつの間にかサリンジャーは、ホールデンをガラスケースの中に閉じ込めてしまっていたのである。