死屍累々の日本現代文学シーンにおいて、今最も価値のある作品を書いている作家といえば、もちろん木下古栗である。
一度ハマれば、木下古栗がなければ生きていけない身体になってしまう麻薬的な魅力を誇る作家だ。中毒者たちは必然的に、作品集『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』のみならず、単行本未収録作を求めて文芸誌のバックナンバーを漁る羽目になるのである。
(Wikipediaの作品リスト参照)
無限のしもべ(『群像』2006年6月号)
2006年の群像新人文学賞を受賞した、木下古栗のデビュー作。しかし現在に至るまで単行本には収録されていない。ちなみにこの『群像』2006年6月号には作者の写真と短い受賞の言葉も掲載されている。風貌は「いかにも」というべき風格があり、写真と「埼玉県 30歳 無職」の堂々たるプロフィールまで合わせて本作は完結する。
内容は二部構成で、前半はマンションの駐車場で円卓を囲んでティーパーティーをしている男女四人を、主人公であり語り手である「稔」が自室の窓から見かけ、仲間に入れてもらおうと接触する話。
デビュー作らしく荒削りな面も多いが、この作家にとって「荒削り」というのは「まとも」であるという意味だ。本作のナンセンスなギャグは、まだ「シュール」という一般的な領域に留まっている。選評で藤野千夜が「上滑り」と評したのは、やり過ぎだからではなく、まだ読者の目を気にしているからである。終盤には意味深なループ展開が少しだけ顔を覗かせるが、あまり意味は無い。
後半は、同じく主人公稔が「年齢不詳の女」の跡をつける話だが、こちらのほうが独白のシュールなキレは増している。だんだん作者がコツを覚えてきたのだろうか。それでも全体的には「ありがちなシュール狙い」な作品という程度の印象で、単行本未収録の「幻のデビュー作」という立ち位置は妥当だろう。
受粉(『群像』2007年5月号)
デビューから11ヶ月後の受賞第一作。およそ四つのパートから成り立っている。最初の「独り痴漢」の発見とそれに対する考察は、「いい女vs.いい女」における似非評論文体の萌芽が見て取れるが、この手の文体は木下古栗以外にもわりと純文学作品には多い手法であり、それほど独自性や面白さがあるとは思えない。
次の露出狂の女のエピソードはそこそこだが、「痴漢掲示板」の「投稿」は鋭いキレを見せる。
私は痴漢としてフル活動していました。木下古栗が自分に合う文体を獲得した瞬間だろう。そして最後に、語り手が「元保母」と食事する、極めて退屈で紋切り型の「普通の小説」が描かれるが、心配しなくてもちゃんとラストで、「元保母」の肛門にいきなり中指を突っ込み、すると「にゅうっと 絞り出されたもの」が排出されるという安心の展開になる。
そのずっしりとした重みと香ばしいにおいが特徴のこんもりと盛られた糞を手ごと懐に忍ばせて家まで帰った。誰のためで もないおみやげとして……つまり「受糞」というわけである。酷すぎるラストで、まさに木下古栗の真骨頂だ。
淫震度8(『群像』2009年4月号)
序盤はやはり、ゴミ拾いに執着する男の似非評論文的文体が延々と続く。退屈な文学のパロディなのだろうが、つまらないものはつまらない。その後は出会い系サイトの女の子と会いに来た「豊丸」が、そのゴミ拾いオジサンが女装しているのを目撃、ホモ肛門セックスが勃発してようやく調子が出始める。
「淫行で捕まるリスクを覚悟して朝飯も喉を通らなかったってのに、冗談じゃねえよ!」「いったい、俺を何だと思ってんだよ? 女装趣味のオッサンをよろこんで売春するほどストライクゾーンが広いとでも、心のどっかで思ってんのか……」こういうのをパルプフィクションというんだっけ……平行して「自分の写真をビラにして配っている女」のエピソードがあるが宙ぶらりんのまま放置。それよりいきなり一人称「ぼく」が出てきて専務を突き落としたエピソードを平然と語るのに不意を疲れて笑う。「ぼく」という表記のアホっぽさが良い。
夢枕に獏が……(『群像』2010年2月号)
当然、夢枕獏は全く関係ない。エロ本を食べよというお告げを聞いた男と、エロ本を十時間立ち読みしている男。典型的な木下古栗的モチーフだが、結局最後まで話が広がらない。まあたまにはこういうのもあるだろう。天才とて打率10割とはいかない。途中でいきなり作者らしき「僕」が登場するのはアホらしいが、その後は「貴様」という前代未聞の二人称小説を楽しめる。
虹色ノート(『すばる』2011年11月号)
ロシアの宇宙飛行士からOLへ、そこから拾った「虹色ノート」へと、前半は木下古栗的な行き当たりばったりの連鎖が描かれる序盤だが、「七色の野糞」を採集する男のノートの物語は木下古栗にして脈絡が通っていて、むしろ不安になる。これはぜひ単行本化して、作中で「一色で塗りつぶされた頁」を再現してもらいたい。
人は皆一人で生まれ一人で死んでいく(『群像』2012年7月号)
傑作である。 序盤の美容院運営の描写は木下古栗らしくなく至ってまともで、それに笑ってしまう。木下古栗中毒になると、何の変哲もない表現ですら「裏」の笑いに思えてしまうのだ。
当初は気持ち安めに設定した料金を少しばかり値上げさせてもらったうえ、誕生月には10%引きの特典もさりげなく廃止した。なんで小説の中でまじめに美容院経営してんだ……と「正気に戻った」のか、中盤からは本領が発揮される。
おい、イカせたな! こいつは今確実に新次元のアクメに達していたぞ! お前はもはや美容師でも何でもない、プロフェッショナルの皮を被った立派な素人性 感マッサージ師だ! もう美容師免許は返上して今すぐセックススクールでも開講した方がいい! 女には頭にもGスポットがある! これはノーベル賞級の今 世紀最大の発見だぞ!」とゴッドハンド絶賛の声が聞こえた。
まずは会社を立ち上げる必要があるな。資本金は……三十円くらいあれば十分だろうか? それとも百五十円くらいは必要だろうか? 無理して五百八十円くらいか? この女を殺してみないか? そのハサミでブッ殺してみないか? 頸動脈を突き刺してみないか? 自分の可能性を試してみないか? この女をブッ 殺してその無残な死体のモノクロ写真を印刷したダイレクトメールをクール宅急便で送ってみないか? 有限会社ハードコアヘッドハンティング主催。頭皮愛撫で性感開発。新たなる性感帯の導きで、あなたも天国に行けます。もちろん、これは架空の会社で、その実態は美容室なんだ。だが普通の美容室じゃない。髪を 切るどころか、何と巨大なハサミでいきなり客の首をチョン切ってしまうという、何とも大胆極まりない美容室。超肉体労働。終盤は「Tシャツ」と並ぶ言語ゲームと化す。個人的にはここまでいくとナンセンスすぎる気もするが、ともあれ木下古栗ファンなら一度は読むべきである。是非単行本に収録して貰いたい。
冷めゆく愛情にGPSを。年増女のミイラの傍らで高級ダッチワイフの蝋人形にヴァーチャル競走馬の種付けを。
人間性の宝石 茂林健二郎(『すばる』2013年3月)
もちろん脳科学者は関係ない……地獄のミサワもネタにしていたが、何なのだろうか、ギャグ作家の気を引くなにかがある人なのだろうか。内容は「茂林健二郎」のシュールでクレージーな日々を、ややインタビュー形式で描く、安定した内容。
新しい極刑(『すばる』2013年10月号)
これはまたもや似非評論文文体で自己模倣に陥りつつある。巨大な女性器に自分の体を突っ込む男の話は木下古栗的だが、すでにファンはそれぐらいでは満足しない。
天使たちの野合(『群像』2014年2月号)
岸本佐知子編のアンソロジー『変愛小説集 日本作家編』に収録されているが、そのせいか、終盤にありがちな幻想小説的イメージになってしまってガッカリ。木下古栗の凄さは、「幻想小説」といったありがちなイメージ(こっちが形式づけているのだが)で説明しきれない、解釈を許さない圧倒的なナンセンスにある。
生成不純文学(『すばる』2014年6月号)
小説家(和服の文学作家)の元に編集者が向かい、会話の後に木下古栗的エロ・バイオレンス展開になる、が実は作家の作中作でした、というオチが繰り返し続く入れ子構造のメタフィクション。もちろん、木下古栗らしくない「スマートな仕掛け」で作者ならこんな構造使わずとも無茶苦茶をやれるだろう。
人間の本性を考える(『小説すばる』2014年10月号)
『小説すばる』掲載でも木下古栗は変わらずいつものスタイル。壇上で自らの株の成功体験を話しながら、結局はアナルネタに落ち着くあたりは流石である。
股間の大転換(『文學界』2014年11月号)
下半身に衣服を身につけず、股間を露出させるのが当然という倫理観の世界を描いたディストピアSF。とはいえ藤子・F・不二雄の異色短編「気楽に殺ろうよ」にインパクトで負けているのは木下古栗らしくない。いちおうある程度の脈絡があるストーリーなので木下古栗初心者に勧めるにはいいかもしれない。