衿沢世衣子は思春期の少女・少年を描いた作品を多く手がけている漫画家である(もちろん大人を描いた作品も素晴らしい)。
その代表作が「モンナンカール女子高等学校」という女子校のクラスメイトたちをオムニバス形式で描いた『シンプル ノット ローファー』だが、『うちのクラスの女子がヤバい』は『シンプル~』直系の後継作というべき作品である(実際、2巻の巻末には『シンプル~』のキャラクターが登場するコラボ的オマケページが掲載されている)。
衿沢世衣子の描く「教室」は、読んでいてとても心地よい。そこには「身分制」による別け隔てというものが無いからだ。
フィクションがスクールカーストを描くまで
スクールカーストというのは、中学や高校の教室内で発生する、漠然とした「生徒間の上下関係」のことである。詳しくはググったり上記の『教室内カースト』 を読んだりしてほしい。
スクールカーストという概念がいつからあるのか(人が集まる場所では普遍的に生じるものなのか、もしくは現代特有のものなのか)は分からないが、少なくともフィクションにおいてこの概念がいつ頃から取り入れられ描かれるようになったのかは、ある程度図ることができる。
スクールカーストの概念を描写した作品の嚆矢としては、やはり2003年に刊行された綿矢りさの小説『蹴りたい背中』だろう。
クラスに友達がおらず、所属している陸上部でも周囲に馴染めず浮いている女子高生ハツは、作中でそういう表現は使われていないものの、「カースト下位」に位置する生徒であり、「カースト上位」の生徒に対する鬱屈と劣等感という相反する心理が繊細に描写されている。
これに加え、翌年の2004年に刊行された白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』と、それを原作にした2005年のドラマ版の存在も重要である。
『野ブタ。』は教室では明るい人気者を演じている男子高校生の修二が、転校生のいじめられっ子(=カースト下位)な信太(野ブタ)に懇願され、彼を人気者(=カースト上位)にプロデュースするという、「教室内の人気(≒スクールカースト)」に極めて自覚的なテーマの作品である。
本作が先進的なのは『蹴りたい背中』以上にスクールカースト(生徒間の関係)を正面から取り扱いつつ、「クラスの人気=スクールカーストというのは、小手先のテクニックでコントロール可能な、曖昧で相対的な代物である」と脱構築するところまで一足飛びに達成してしまっている点である。
この点において、『野ブタ。』以上のスクールカーストという概念を扱いこなした作品は、未だに存在しない。
一方ドラマ版は(いろいろな都合で)野ブタが女子(堀北真希)になっていたり、「プロデュース」がやや非現実的でご都合主義的なものになってしまっていたり、主演がジャニーズ俳優(亀梨和也&山下智久)ということもあってか修二が「いい子」にスポイルされてしまったりしているものの、かなりの話題を呼んだ有名作となった。
ドラマ版『野ブタ。』のおかげで、スクールカーストという概念が人口に膾炙したと言っても決して過言ではないだろう。
『野ブタ。』のヒットもあって、2000年代後半からは徐々にスクールカーストをテーマにした学園ものが増えていった。
具体的には2005年の豊島ミホの小説『檸檬のころ』、同じく豊島ミホの2006年のエッセイ『底辺女子高生』、2010年の朝井リョウの小説『桐島、部活やめるってよ』、ライトノベルの領域では2009年の『僕は友達が少ない』、2011年の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』、漫画では2001年~2007年連載の大島永遠『女子高生 Girls High』、2011年連載開始の『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』あたりが代表例だろう。
これらのヒット作を経て、現在では学園もののフィクションにおいて、スクールカーストは(メインテーマでなくとも)「当然存在するもの」として描かれているものがほとんどである。
スクールカーストは「一過性のブーム」から「普遍的な前提」にすでにフェーズが移行していると見るべきだろう。
フィクションにスクールカーストを持ち出す功罪
だが、個人的にはフィクションにおいてスクールカーストを安易に持ち出すのはあまり得策だとは思わない。もちろん『蹴りたい背中』や『野ブタ。をプロデュース』(原作版)のように、教室内の微妙な心理関係を描いた優れた作品も存在する。
しかし、スクールカーストを(今風の題材として安易に)持ち出している作品の多くは、教室内の生徒を「リア充」と「ぼっち」という程度の単純な対立項としてしか描いて(描けて)いない。
「リア充」は騒がしくウェーイウェーイと猿のように繰り返すだけで、「ぼっち」は机にうつ伏せになってそれを憎々しげに聴いている……そういった描写はとっくに陳腐化してしまった。
もともとは「これまで語られなかった、目に見えない繊細な教室内の関係」を描いたからこそスクールカーストというテーマは意味があったのだが、今ではスクールカーストは生徒をテンプレートな枠にはめるためのエクスキューズになってしまったのだ。
衿沢世衣子の描く「クラスメイト」の距離
話を戻すと、衿沢世衣子作品が素晴らしいのは、こういった(紋切り型な)スクールカーストの「呪縛」に絡め取られることなく、軽やかに教室内の生徒間の関係を描いている点である。
具体的には、衿沢作品では教室内外で誰かが誰かに話しかけるというシーンがよく登場する。
重要なのは、お互いが別段友達・仲良しという関係ではなくても、皆自然に声を掛け合い、「クラスメイト」として同じ空間と時間を共有している点である。
『シンプル~』7話「ハイロースト」より 3人は別段親しい関係ではない |
『シンプル~』10話「グリーンティー」より |
『うちのクラスの~』3話「点子ポエティック」より |
『うちのクラスの~』13話「犬釘ノート」より |
特別親しくない相手にも話しかけるし自然と付き合う。しかし別にベタベタと過度な馴れ合いを要求するわけではない。かと言って過度にドライな関係をアピールしているわけでもない。
あくまで「知り合い以上・友達未満」な「クラスメイト」という絶妙な人間関係を、概ね現実的に、しかし少しだけ理想的に描いている。その塩梅が心地よい。
『シンプル~』7話「ハイロースト」より 別段「友達」でない相手とでも気軽にカードゲームができるような関係として「クラス」が描かれている |
『シンプル~』9話「ヨモギ」より 同じ時間を共有しながらも個々人が独立している、衿沢作品の人間関係を端的に示している1コマ |
「無用」だったとしても
オーソドックな学校ものである『シンプル ノット ローファー』と比べると、後発の『うちのクラスの女子がヤバい』には、女子がそれぞれ「無用力」という「役に立たない超能力」を持っているという、プチSF的な味付けがされている。怖がると宙に浮かんでしまう子や… |
かわいいものを見るとウサギのぬいぐるみになってしまう子も |
「無用力」は本作の主要なモチーフである「クラスメイト」という存在を描くための重要な手段でもある。
そもそもクラスメイトというのは不思議な存在である。
1クラスを40人とすると、同性だけに絞っても20人。このうち、自分以外の19人全員と「友達」になれる人はどれぐらいいるだろうか。
普通はクラスの中で「友達」と言えるような相手は数人程度だろう。人間の一般的な交友関係はその程度である。
しかし「友達」でないクラスメイトは「他人」なのかというとそういうわけでもない。
たとえ一年間、直接言葉をかわさなかったとしても、ある程度のパーソナリティ――どのクラブに所属しているかとか、誰と仲が良いのかとか、お喋りなのか大人しいのかとか――はわかる。教室という閉鎖空間に一年間もいれば、自然とわかってしまうのだ。
だからクラスメイトは「友達」でなくても「他人」以上なのである。
無用力はそういった「クラスメイトについて、なんとなく知ってること」のメタファーである。
彼女と話したことはなくても、彼女が「壁を歩ける無用力の人」であることは知っている。
相手のこと=無用力をただ「知っている」という関係が「クラスメイト」である |
しかし、無用であってもそれは大切なことだ、とこの作品は教えてくれる。なぜなら、それだけで相手はもう「他人」ではなく「クラスメイト」になるのだから。