「普通の子」の冒険
初代『ポケットモンスター 赤・緑(・青・ピカチュウ)』は累計で5000万本近くを売り上げているRPGの代表的な作品だが、実はそのストーリーは極めて曖昧である。
ゲームのストーリーには「目的」がある。
たとえば初代『ドラクエ』であれば、冒頭ですぐに「竜王を倒してくれ」と「旅の目的」を提示される。
しかし初代『ポケモン』は「旅の目的」が巧妙に誤魔化されている。
序盤、オーキド博士に「ポケモン図鑑を完成させてくれ」と頼まれて主人公(=プレイヤー)はマサラタウンを旅立つものの、ポケモン図鑑の完成はゲーム進行にほとんど影響しないし、図鑑を完成させなくてもエンディングまで到達できる。
実際、ゲーム進行上プレイヤーがこなす必要があるのは「ジムの制覇」である。
だが『ポケモン』シリーズの主人公はセリフを発しないので、彼がポケモンバトル・ジム制覇にどれほどのモチベーションを持っているかはわからない。
あくまで彼は「なんとなく」旅に出て、行きがかり上ジムを突破し、ロケット団を壊滅させ、最終的にはポケモンリーグの頂点にまで立ってしまう。
さらに面白いことに、プレイヤーはこうした旅の目的の欠落を疑問無く受け入れ、自然にゲームを進行させているのだ。
これは恐らく、ゲームという媒体でしかありえない現象だろう。アニメ版の主人公・サトシが「ポケモンマスターになる」という強い「目的」を再三アピールしていたのとは対象的だ。
『ポケモン』赤・緑は「実はゲームに目的はなくていい」ことを示した作品でもあったのだ。
ストーリーはどうでも良く、主人公=自分の分身がポケモンを捕まえ、育て、戦わせ、様々な町や洞窟を冒険する、そういった疑似体験がプレイヤーにとっては「目的」だったのだ。
これはもちろん、プレイヤーが主人公に自己投影して『ポケモン』の世界を疑似体験するための手法である。
だがこの作風には弱点もある。前述の通り「ストーリー」が描けないことだ。
あくまで「普通の少年/少女が冒険する」という根幹が前提である限り、ダイナミックなストーリーを展開させるのは難しい。
故に、「金・銀」以降は、主人公に託せない「ストーリー」をいかに描くかという工夫の推移が見て取れる。
例えば第2作続編『金・銀』では「ライバル」がストーリーを担っている。
彼はウツギ研究所からポケモンを盗み出す「悪人」であり、素性不明ながら行く先々で主人公に戦いを挑むが、最終的には精神的に成長の兆しも見られる。
また彼はロケット団首領サカキの息子という(裏)設定もある。主人公とは異なる「トクベツ」な存在なのだ。
『ルビー・サファイア』では陸と海を、『ダイアモンド・パール』では時空と空間を司る伝説のポケモンが登場し、主人公の活躍が世界の命運を握ることになる。
こうしたダイナミックなストーリー展開は『ポケモン』らしくないとそしりを受けることもあるし、それは事実だ。しかし少なくとも「RPGらしいストーリー」であることは間違いない。
カギを握るのは「N」というキャラクターである。
名前からして異質なのこのキャラクターは、謎に包まれたプロフィールを持ち、主人公の行く先々で敵として立ち塞がる、という点で「金・銀」のライバルと同様だが、最終盤の展開が決定的に異なる。
『金・銀』のライバルはあくまで物語上の脇役に過ぎないが、『ブラック・ホワイト』のNは物語が進むごとに登場頻度が増し、遂には「Nの城」なる彼そのものを象徴するような場所にまで誘われることになる。
Nは『ポケモン』シリーズのストーリー上で最も目立っているキャラだ。そして、様々な意味で「普通の子」である主人公とは対照的な存在でもある。
Nの存在はプレイヤーの間でも大いに反応が別れる。Nというキャラクターに魅力を感じる人もいれば、『ポケモン』の作風やコンセプトに合っていないという指摘もある。
個人的な気持ちとしても、たしかにNは色々な意味で浮いていると感じる。
Nは目立ちすぎており、(都合上主人公には託せない)「ストーリー」を背負わされている。
……が、同時に、「実質的な主人公」になるには出番が少なすぎる。矛盾するようだが、Nは「目立ちすぎているのに、出番が少ない」。それがアンバランスで歪な印象を与えている。
主人公以外のサブキャラクターのストーリーが掘り下げられる……というのはRPGにはよくある手法である。
例えば『クロノトリガー』の脇役の一人である「カエル」。
彼は一見「人語を操るカエル」というイロモノキャラだが、実は長いバックストーリーがあり、ストーリー上で語られる。カエルは『クロノトリガー』において、クロノと並ぶ「もう一人の主人公」と言って良い立場だろう。
しかしそれが成立するのは、カエルがパーティーメンバーの一人だからである。
プレイヤーがクロノと同様、カエルをずっと「自分で操作」しているからこそ、「もう一人の主人公」として感情移入するに足る思い入れが生まれているのだ。
しかし『ポケモン』は普通のRPGと違って、「パーティーメンバー」が存在しない。
主人公が使役するのはあくまでポケモンであり、だからこそ『ポケモン』の主役は、人間キャラではなくポケモンなのだ。
分不相応な設定――AZ、マチエール、そしてヒガナ
Nへの反応を鑑みてか、第6作『X・Y』ではライバル枠である「ともだち」の数を増やし、「普通の子供」である主人公の等身大の冒険、という初代の路線に回帰を図ったように見える。
が、一方で「ストーリー」を担う「トクベツ」な存在もしっかり登場している。作中で度々姿を見せる謎の大男「AZ」や、クリア後のストーリーで登場する少女マチエールがそれに当たる。
AZは『ポケモン』の世界観に全く似つかわしくない大仰な設定を持つ「トクベツ」中の「トクベツ」である。しかしその設定の大層さと反比例するように、ゲーム内での出番は極めて少ない。Nの「目立ってるのに描写が少ない」特性をさらに極端にしたような存在である。
一方マチエールは、彼女独自のバックストーリーはしっかりと描写されている。
だがそれ故、そもそも「『ポケモン』のクリア後シナリオでやる必要があるのか」という疑問も生まれてくる。マチエールの物語は、主人公の冒険ともポケモンの存在とも切り離されすぎており、「他人の話」以上ではない。
個人的には、『オメガルビー・アルファサファイア』本編のストーリー描写は見事な塩梅だと思っている。
ライバル(ハルカ/ユウキ)の描写が原作から大幅に増えたことで、自然に「ストーリー」(友情・仄かな恋心)を描くことに成功している。
だが、クリア後の追加ストーリー「エピソードデルタ」では、そうした繊細なバランスは宇宙の彼方に消し飛んでしまっている。
その原因は、もちろん「エピソードデルタ」の中心となるヒガナというキャラクターだ。
ヒガナは本編クリア後、平和になった世界で主人公たちの前に現れ「平行世界」の存在について語る。
当然、プレイヤーは唖然とする。なにせ『ポケモン』シリーズにはこれまで「平行世界」なる概念は登場したことが無いからである。プレイヤーにとってヒガナは「いきなり意味不明なことを言い出す電波女」でしかなく、当然、作中人物も同じ反応である。
しかしヒガナは意にも介さず、ひたすら自分の行動原理に基づいて物語を引っ掻き回す。そして最終的には(主人公の活躍で)世界の危機は救われ、 ヒガナは姿を消し、エピソードデルタは終了する。
終了してしまうのである。クリア後に「平行世界」の存在やヒガナの真意が明かされることは一切ない。
明らかに説明不足であり、プレイヤーから不満の声が挙がるのも仕方ない。
だが、ここまでの流れを考えれば「エピソードデルタ」が決して突然変異的に生まれた「異端児」でないことが理解できる。
『金・銀』のライバルや『ブラック・ホワイト』のNや『X・Y』のAZ、ヒガナは彼/彼女らの末裔なのだ。
リーリエを「戦わせなかった」のは誰か
最後に最新作の第7作『サン・ムーン』にも言及しておく。
『サン・ムーン』において「ストーリー」を担っているのは、言うまでもなくリーリエである。「サン・ムーン」はリーリエと母親の関係を描いた物語だからだ。
ただしリーリエはN・AZ・マチエール・ヒガナのように「大層な設定」は付けられていない(「財団の会長の娘」というぐらい)。
なので、これを見ればそれほど「トクベツ」扱いされていないようにも見える……が一方で「作中で(主人公と)ポケモンバトルしない」という新たな「トクベツ」性も与えられている。
個人的には、この点が非常に歪で不自然だと感じた。
『ポケモン』はポケモンバトルがメインのゲームである。故に、バトルを行わない人間キャラクターはそれだけで存在意義が大きく薄れてしまう。
個人的には、この点が非常に歪で不自然だと感じた。
『ポケモン』はポケモンバトルがメインのゲームである。故に、バトルを行わない人間キャラクターはそれだけで存在意義が大きく薄れてしまう。
『ポケモン』シリーズのジムリーダーや四天王といった人間キャラが人気なのは、デザインやキャラが良いから(だけ)ではなく、彼らがトレーナーとしてプレイヤーと戦うからである。
リーリエは『サン・ムーン』で最も描写が多い、重要なキャラクターである。にも関わらず、一度もバトルしない。なぜならリーリエは「トクベツ」な存在だからであり、ルザミーネのそれよりもずっと重たい「親の束縛」を受けているから、そう感じてしまったのだ。
(なお、アニメ版『サン&ムーン』では、リーリエはちゃんとポケモンバトルするし、サトシを始めとしたポケモンスクールの面々とのバランスも含め、非常に魅力的なキャラクターとなっている。)