福満しげゆき『中2の男子と第6巻』の最終巻(4巻)を読んだ。
物語としては、3巻の中盤ぐらいで作品の目的である「イジメっ子への逆襲」が半ば完遂されてしまっており、その後はやや中だるみ感が否めなかったものの、とりあえず作中の要素をすべて回収して完結したので満足だ(『ゾンビ取りガール』の復活はいつになるのだろうか……?)。
特に興味深かったのは、やはりラストの展開である。
意図的な蛇足
「師匠」との特訓や「本体さん」たちとの交流の末、中学に復学も果たした「中2」。物語としてはハッピーエンドであり、事実「その116 さよなら師匠」では、この手の物語の定番である「役目を果たした師匠が消える」という別れのシーンが描かれ……かけるのだが、夢オチで終わる。
「別れて終わり」ではない。(その116)
中2の「物語」はすでに完結したはずなのだが、なぜか師匠は消えずに居残り続ける。「その117」では2年後が描かれ、「その118」ではさらに6年後、社会人になった中2と、変わらずそばにいる師匠が描かれる。その後も中2の「平凡だけど幸せな、普通の人生」が最期まで描かれ、これでようやく終わりかと思ったら、最終話では中2の孫の元にまで師匠が現れるのである。
これは一体どういうことだろうか。普通に見れば、「その117」以降は明らかに「蛇足」である。物語は(綺麗に)終わったはずなのに、なぜか連載がダラダラ続いている。
しかし、福満しげゆきはこういった「意図的な蛇足」を描くのが上手い(おそらく日本で唯一の)マンガ家でもあるのだ。
例えば作者の自叙伝的作品『僕の小規模な失敗』では、主人公の「僕」が紆余曲折の末「妻」と結婚し、マンガ家として生きていこうと「決心」し、妻とコタツに入って自分のこれまでを述懐するシーンで「終わり」を迎える。
いろいろなことが…あったようななかったようなこれまでだけど…落ちこんだりもしたけれど… よくよく考えてみれば今までこれでよかったんだ……いや、むしろ幸せな人生だったのではないかな…?……が、次のページをめくると「しかし人生は続く」というナレーションとともに、冴えないマンガ持ち込み(が失敗する)生活が3ページほど描かれ、(……これからどうなるんだろう……)という身も蓋もない不安なモノローグとともに、唐突に(本当に)終わる。
(『僕の小規模な失敗』143頁)
本作を「青春もの」として見た場合、これは明らかに「蛇足」である、が作者が意図的に「蛇足」を付け加えているのもまた明らかである。
『生活』にもこういった「蛇足」が見られる。
具体的には終盤、会社に捕まった「青年(オレ)」を「少年(僕)」が助け出した後。物語としてはこのままエンディングに進んでも良いのだが、なぜかここから「会社からの刺客」が何人か彼らを狙って襲い掛かってくるという展開になる。
かと思ったら、数人退治すると刺客は途切れ、そのままぬるっと最終話に進んでいく。
人生は都合よく終わらない
これらを見ると、福満しげゆき作品には、「現実は、物語のように都合よく綺麗に終わらない」というテーゼがあるようだ。『僕の小規模な失敗』では「青春」が終わっても、人生は続く(しそこからの方が長い)という結末だった。
そして『中2の男子と第6感』の最終話は、それに加え「現実は、そもそも終わらない」というより先鋭化したテーマにまで踏み込んでいる。
つまり「自分が死んでも、世界はそれとは無関係に続く」。
本作の場合、師匠は中2の孫の元に現れたが、仮に中2が子孫を残していなかったとしても同じことだ。自分が死のうがどうなろうが、世界は関係なく運営されていく。
主人公=自分の存在は、世界においてあくまで「脇役」に過ぎない、という強固なテーゼが、福満しげゆき作品を貫くメランコリーなのである。