2019/03/31

『Night in the Woods ナイト・イン・ザ・ウッズ』 テレビゲームが描く(ことができなかった)「青春」

楽しみにしていた『Night in the Woods(NITW)』の日本語版(Switch)をクリアした。


プレイしていて連想したのは、『ライ麦畑でつかまえて』や『ムーン・パレス』『ウォールフラワー』といった長編、ないしトバイアス・ウルフやスチュワート・ダイベックの短編といったアメリカの「青春小説」たちだった。

あるいは『ラスト・ショー』『ギルバート・グレイプ』『卒業』『普通の人々』『ナポレオン・ダイナマイト』といった「アメリカの田舎町に暮らす若者」を描いた映画、もしくは『青春群像』や『トレインスポッティング』といった「退廃的な若者たちのグループ」を描いた映画にも似ていると感じた。

もちろん「思春期の少女を主人公にしたアドベンチャーゲーム」としては、最近の作品だけでも『BEYOND: Two Souls』や『Life is Strange』といった、より直接的に「近い」ものが存在する。
しかし自分にとってNITWはこれらの「ゲーム」よりも、小説や映画に近い存在なのである。

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(ネコの)ヒューマンドラマ

本作の主人公・メイは大学を中退して実家に出戻りした20歳の少女である。

2年ぶりに帰ってきた地元の田舎町「ポッサム・スプリング」での日常を通して、彼女の漠然とした世界への不安や焦燥感が描かれる。すなわち、古今東西の思春期の若者が持つ普遍的な心理がメインテーマとなっているのだ。
こういった「閉塞的な世界で生きる若者の屈託」という題材は、小説や映画の世界では全く珍しいものではなく、むしろ上に例を上げたように王道で普遍的ですらある。

しかしゲームの世界においては逆で、こういった内面的でケレン味がない、(ツタヤのレンタルビデオコーナーのような俗なカテゴライズをすれば)「ヒューマンドラマ」がゲームのストーリーとして採用されるのは珍しい。

例えば、メイが友達のビーと一緒に、寂れた夜のショッピングモールに赴くシーン。
ビーが「噴水に神様がいると思ってた」と語るシーン。他に誰もいない二人きりのフードコートの静謐な雰囲気。天井から釣り下げられたオブジェをジャンプでメイが登っていくシーンの美しさ。
こういった「何の意味もない」シーンが(小説や映画ではなく)ゲームで描かれたのは、おそらく初めてではないだろうか。
「神様」や「幽霊」が(森の中にもショッピングモールにも)いないことを彼女たちはもう知っている。

なぜこういった「青春」や「日常」がゲームでは描かれにくいのか? 答えは簡単で「ゲーム性を持たせるのが難しい」からだ。


ゲームに向かない話

アドベンチャーゲームやノベルゲームで人気なのは「推理」や「恋愛」といった題材だ。

例えば『ポートピア連続殺人事件』に始まり、『探偵神宮寺三郎』『かまいたちの夜』『逆転裁判』『ダンガンロンパ』に至るまで推理を題材にしたミステリーもののアドベンチャー・ノベルゲームは数多い。
それは「推理」という行為が、すなわちポイント&クリックで証拠を集め、ロジックを組み立てて犯人を指摘するという一連の流れがゲームに組み込みやすいからである。

「恋愛」も同様で、「ヒロインの好感度を上げる→一定以上の好感度で告白が成功する→恋人同士になってハッピーエンド」という流れがゲームのフォーマットに落とし込みやすいからこそ、恋愛シミュレーションはゲームの一ジャンルとして定着しているのである。
メイもそういう「ゲーム」をやっていたらしい。

しかしNITWのような心理の機微を描くストーリーは、ゲームにするのが難しい。
そもそも一体何をもってメイの心理が変わるのか、どうすれば「クリア」なのか「ハッピーエンド」なのか、わからない。本人にもわからないし、両親にも友達にもわからない。だからゲームにできない。

だがNITWはそんなゲームに描けないはずの「青春」を描いた。どうやったのかというと、「ゲームであることを辞めた」のだ。

手段としてのインタラクション

NITWはアドベンチャーゲームであり、プレイヤーは主人公のメイを操作して人々と会話したり、ごく簡単なミニゲーム的インタラクション――ベースを弾いたりプレッツェルを万引きしたり――をこなすが、そういった行為にゲーム性は殆どない
ミニゲームのほとんどは原始的なもので、そもそもクリアしなくてもストーリーは滞りなく進行する。
万引ミニゲーム

決闘ミニゲーム(おそらく本作で最も難易度が高いシーン)

本作におけるゲーム的なインタクラクションは、どれもプレイヤーをメイに同化させるため(だけ)の手段として扱われている

そして実際プレイヤーは、他愛のないミニゲーム――手を伸ばしてピザを掴むとか――をこなすことで、確実にメイに近づいていく。やがてゲーム後半では、ポッサム・スプリングの落ち葉の匂いも感じられるようになっているだろう。
『BEYOND』や『ライフ イズ ストレンジ』がNITWと似ていないと感じたのは、両者がより(「普通」の)「ゲーム的」だからである。

『BEYOND』は章の時系列をシャッフルするという演出手法を取っているためプレイヤーの主人公に対する感情移入が阻害される(それは別に悪いことではないが)し、『Life is Strange』は「時間を巻き戻す」「選択肢によって展開が変化する」というギミックが「ゲーム的」である。

ゲームなのだから「ゲーム的」なのは当たり前なのだが、NITWはインディー作品ということもあって、そういった「ゲーム性」を背負う必要がなかったのだろう。
NITWは、ゲーム性が無いという意味ではゲームではない。しかし、ゲーム的な操作によってプレイヤーはより深く物語世界に没入できる。その意味で、本作はやはりゲームなのだ。もし本作が映画やコミックで同じストーリーをなぞったとしても、これほどまでにメイに感情移入は出来ないだろう。

NITWはゲーム性を――森の中に?――捨て去り、ゲーム性をあくまでプレイヤーと作品世界をつなぐ架け橋の役割に留めた。そうして、NITWはこれまでテレビゲームが描くことができなかった物語の領域に踏み込むことに成功したのだ。

だからプレイヤーの眼には、本作で描かれる普遍的な思春期の心理の機微や、寂れた田舎町の日常の風景が、まるで生まれて始めて見るもののように映るはずだ――ちょうど2年ぶりにポッサム・スプリングに帰ってきたメイが町を見て、変わったものと変わらないものと、その間にいる自分を感じるように。