DS版の『ドラゴンクエスト4 導かれし者たち』と『ドラゴンクエスト5 天空の花嫁』を続けてプレイした。
どちらもゲームとしても面白かったが、対照的な構造をしている点が興味深かった。
1章「王宮の戦士たち」では生真面目な兵士ライアンの、2章「おてんば姫の冒険」では武道好きな王女アリーナ・従者の青年クリフト・お目付け役の老人ブライの、3章 「武器屋トルネコ」では妻子持ちの商人トルネコの、4章「モンバーバラの姉妹」では錬金術師の父を弟子に殺されその仇討のために旅する姉妹マーニャとミネアの旅立ちが描かれる。
パーティーメンバーの8人がそれぞれの人生を持ち、旅を通じて一時的に交わるが、エンディングの後はまたそれぞれの故郷へと戻っていく。物語の上では8人全員が主役であり、主人公は決して特別な存在ではない。
主人公ははじめは子供なので、勝手に村の外には出られないし魔物と戦うときは父親の後ろに隠れるしかない。
『4』の主人公は、故郷の村が魔王に襲われ主人公以外の村民が全滅、天涯孤独となった地点から5章がスタートする。間違いなくどん底の境遇だろう。
しかし、5章が始まるとすぐに仲間のミネアとマーニャと出会うことができ、3人パーティーとなる。プレイ時間で言えば、主人公1人で旅している時間は10分程度でしかない。
その後も旅が進むごとに「導かれし者たち」が集結していき、パーティーのバランスで困ることはない。この点を見ると、『4』の主人公は旅の道中は比較的恵まれた環境にあると言える。
しかし魔王を討伐し世界に平和が戻ると、前述の通り仲間たちはそれぞれの故郷に帰っていく。
仲間たちを見送った後、使命も行く宛も失った主人公は廃墟となった生まれ故郷の村に戻ってくる。他に行くべき場所など無いからだ。なんと深い孤独と絶望に満ちたラストシーンだろうか。
ただしエンディングのラストでは、空から光が差し込み、死んだはずの幼馴染シンシアが生き返る……という一抹の希望を持たせる描写がある。
物語の序盤では主人公は幼い子供であり、父パパスについて世界を回りながら廻りながら(母こそ欠けているものの)無難な幼少期を過ごしている。
しかし父の死をきっかけに10年もの奴隷生活を強いられ、その後も石像にされたり花嫁が攫われたりと、旅の道中の辛さは枚挙にいとまがない。
1章「王宮の戦士たち」では生真面目な兵士ライアンの、2章「おてんば姫の冒険」では武道好きな王女アリーナ・従者の青年クリフト・お目付け役の老人ブライの、3章 「武器屋トルネコ」では妻子持ちの商人トルネコの、4章「モンバーバラの姉妹」では錬金術師の父を弟子に殺されその仇討のために旅する姉妹マーニャとミネアの旅立ちが描かれる。
「天空の勇者」たる主人公はプロローグで少しだけ登場するものの、彼/彼女の物語が始まるのは5章「導かれし者たち」からだ。
ゆえに『4』は群像劇的である。
ゆえに『4』は群像劇的である。
主人公は「魔王を倒す運命を持った天空の勇者」という予言を背負った「特別」な存在であり、魔王討伐隊の中心的な立場ではあるが、他の仲間たちもそれぞれの理由で魔王デスピサロを倒すために主人公に同行している。
パーティーメンバーの8人がそれぞれの人生を持ち、旅を通じて一時的に交わるが、エンディングの後はまたそれぞれの故郷へと戻っていく。物語の上では8人全員が主役であり、主人公は決して特別な存在ではない。
5は「1人の物語」
一方『5』は、主人公という1人の人間の人生を追体験する形式で物語が進む。主人公ははじめは子供なので、勝手に村の外には出られないし魔物と戦うときは父親の後ろに隠れるしかない。
しかし夜中の幽霊城の探検や、妖精の国の冒険など「子供らしい」アドベンチャーを経て少しずつ成長し、やがて父の死と奴隷の身への転落という大きな転機を迎える。
その後、孤独な旅、モンスターたちとの交流、結婚、出産といったライフイベントをこなしつつ、最終的には魔王を討伐し、一つの大きな「使命」を果たしたところでエンディングを迎える。
『5』の物語は主観的である。全編通して主人公の視点から世界が描写され、物語が進んでいく。
『5』の物語は主観的である。全編通して主人公の視点から世界が描写され、物語が進んでいく。
パーティーメンバーも「嫁」「息子」「娘」「従者」と、あくまで主人公との相対的な関係が前提となった相手である(ただしピピンだけは「出世のために旅に同行する」「女性を見るとすぐ結婚相手として考える」など、「主人公の物語」から離れた場所で自我を持っており、『5』の中では特異である )。
ニクいのは、中心として描かれる主人公自身は「天空の勇者」(=特別な存在)ではない、という点である。
『5』の主人公は決して特別な存在ではない。それゆえ、多くのプレイヤーにとって彼の人生が自分のもののように感じられるのである。
ニクいのは、中心として描かれる主人公自身は「天空の勇者」(=特別な存在)ではない、という点である。
『5』の主人公は決して特別な存在ではない。それゆえ、多くのプレイヤーにとって彼の人生が自分のもののように感じられるのである。
いつ不幸か
道中に恵まれるがエンディング後が辛い『4』
『4』と『5』の主人公は、しばしば「不幸すぎる人生」という共通の切り口で語られることがある。『4』の主人公は、故郷の村が魔王に襲われ主人公以外の村民が全滅、天涯孤独となった地点から5章がスタートする。間違いなくどん底の境遇だろう。
しかし、5章が始まるとすぐに仲間のミネアとマーニャと出会うことができ、3人パーティーとなる。プレイ時間で言えば、主人公1人で旅している時間は10分程度でしかない。
その後も旅が進むごとに「導かれし者たち」が集結していき、パーティーのバランスで困ることはない。この点を見ると、『4』の主人公は旅の道中は比較的恵まれた環境にあると言える。
しかし魔王を討伐し世界に平和が戻ると、前述の通り仲間たちはそれぞれの故郷に帰っていく。
仲間たちを見送った後、使命も行く宛も失った主人公は廃墟となった生まれ故郷の村に戻ってくる。他に行くべき場所など無いからだ。なんと深い孤独と絶望に満ちたラストシーンだろうか。
ただしエンディングのラストでは、空から光が差し込み、死んだはずの幼馴染シンシアが生き返る……という一抹の希望を持たせる描写がある。
だが、これをそのまま現実と取るか、それとも疲れ果てた主人公が見た幻覚と取るかは解釈が分かれるところだ。
その後の6章の展開も含め、とにかく『4』の主人公は旅が終わった後、報われない。
旅の道中が辛いがエンディング後は幸せな5
一方『5』の主人公はどうだろうか。物語の序盤では主人公は幼い子供であり、父パパスについて世界を回りながら廻りながら(母こそ欠けているものの)無難な幼少期を過ごしている。
しかし父の死をきっかけに10年もの奴隷生活を強いられ、その後も石像にされたり花嫁が攫われたりと、旅の道中の辛さは枚挙にいとまがない。
だが魔王を討伐してエンディングにたどり着いた後は、妻と2人の子供に囲まれた幸せな日々を過ごすことができる。
道中は恵まれるが始まりとエンディング後が辛い『4』に対し、道中は辛いが始まりとエンディング後は幸せな『5』。見事に対照的だ。
ビアンカと主人公の境遇は似ている。
道中は恵まれるが始まりとエンディング後が辛い『4』に対し、道中は辛いが始まりとエンディング後は幸せな『5』。見事に対照的だ。
どっちが好き?
『4』の方が好きな人はビアンカと結婚しない説
私は(ファイアーエムブレムなどもそうだが)たくさんのキャラクターが個性を持って戦う群像劇が好みなので、『5』より『4』の方が好きだ。
そして私は『5』をやるといつも結婚相手はフローラを選ぶ。なぜか?
もちろんフローラのキャラとしての魅力もあるのだが、実を言えばデボラでも良い。ただ、どうもビアンカを選ぶ気にはなれない。なぜなら、ビアンカは主人公に「似た」存在でありすぎるからだ。
幼少期に一緒に冒険したのはもちろん、孤独な日々で成長したのも同じ、肉親を亡くしたのも同じ。
青年時代にビアンカと再会した際、ビアンカの(山奥の村で友達もおらず父を看病するだけの日々を送る)寂しさと孤独をプレイヤーが自分の事のように感じるのは、その境遇が(ヘンリーと別れて仲間が魔物しかいなくなった)主人公の孤独と重なるからだ。
ゆえにビアンカと結婚した場合、2人は「似た者夫婦」となる。
ゆえにビアンカと結婚した場合、2人は「似た者夫婦」となる。
孤独な境遇の2人が寄り添い、その子供たちと共に世界を救う。キレイに収まっているように見えるが、個人的にはあまりに内輪で完結しすぎているように感じてしまうのだ。
反対にフローラは、いろんな意味で主人公とは「逆」の存在である。
(孤児院で育ったという生い立ちはあれど)基本的には箱入り娘で苦労知らずの人生を送っており、主人公とは比べるまでもない。
ゆえにフローラと結婚した場合は、「違う」人たちが一緒に旅することで影響を与え合うという物語になり、4の群像劇的なスタイルに近くなる。だから自分は、フローラないしデボラと結婚するほうがしっくり来るのである。