2022/08/01

エーデルガルトにできて、マークスにできなかったこと―『ファイアーエムブレム 風花雪月』&『風花雪月無双』のストーリー(の納得できない点)について考える

このブログではこれまで『ファイアーエムブレム 風花雪月』のプレイ日記システム面について書いてきたが、ストーリーについては直接語る機会がなかった。

いずれ書こうと思いつつ、気がつくと発売から3年経ってしまったのだが、先日スピンオフ作品である『ファイアーエムブレム無双 風花雪月』が発売されたので、これを機に改めて『風花雪月』のシナリオ面について語ろうと思う。

(※以下、『風花雪月』『風花雪月無双』を始め、『Echoes』『封印の剣』『暁の女神』『if』などFEシリーズ全般についてのネタバレを含みます。)

エーデルガルトの主張に納得できるか?

結論から言うと、自分は『風花雪月』のストーリーにあまり納得できていない。発売から3年経ってもそうだ。
ゲームとしてはFEシリーズの中でも上位の完成度と言っていいだろう。だが、ことシナリオ面には看破できない大きなひずみがあると思っている。

『風花雪月』における最大の問題点、それはとりもなおさずエーデルガルトが戦争を起こした理由、すなわち「セイロス教団(中央教会)を打倒し、紋章や身分に囚われない平等な社会を作る」という主張である。



本編の4ルート、及び『無双』の3ルート、合計7ルートすべてでアドラステア皇帝となったエーデルガルトは「古い支配体制を破壊する」という名目でセイロス教団に宣戦布告する。すなわち『風花雪月』とはエーデルガルトが戦争を起こす物語である。

無論、これは武力で敵を制圧することを目的とした「侵略戦争」であり、ゆえに開戦理由は非常に重要である。
なぜエーデルガルトは侵略戦争を起こしたのか。エーデルガルトは戦いの結果、何を手にしようとしているのか。これに納得できなければ、『風花雪月』で描かれるすべての戦いの意味が失われてしまう。

だが、残念ながら自分にはエーデルガルトの主張が理解できなかった。7ルートすべてクリアしても理解できなかったし、なんならプレイを重ねるごとにどんどん理解できなくなっていった。これが『風花雪月』のストーリーに納得できない最大の理由だ。

これは決して珍しい反応ではないはずだ。実際、本作の感想を見ると、エーデルガルトの主張や「理念のためには実力行使も辞さない」という姿勢に共鳴する人もいれば、受け入れがたいと反発する声もある。

様々な意見が出るのは当然だし健全だと思う。しかし、どうも『風花雪月』及び『無双』の作中ではエーデルガルトの主張の是非について正面から語られていないような消化不良感が否めないのだ。その点についても、この記事で言及していきたいと思う。


本当に「中央教会を潰せばフォドラは良くなる」のか

エーデルガルトの主張はすべてがおかしいわけではない。「紋章主義・身分制といった悪しき価値観は壊すべき」という主張自体は、むしろ現代に生きるプレイヤーにとってこそ受け入れやすいだろう。
問題は、「そのために中央教会を潰す」という手段の部分である。

エーデルガルトの主張では、紋章主義や身分制といった古い価値観を流布・象徴しているのがセイロス教会であり、新たな世界の構築のため、武力を行使してでも排除する……というのが開戦の口実である。

しかし端的に言って、セイロス教を滅ぼしたところで紋章主義や身分制が消えてなくなることはありえない。なぜなら、少なくとも作中ではセイロス教が紋章主義や身分制の根源であるようには描かれていないからである。

その根拠は、『風花雪月』本編の前半で描かれるガルグ=マク大修道院の描写そのものだ。
例えばセイロス騎士団には、アロイスやシャミアといった平民出身で紋章を持たない者も多く登用されている。同様に、士官学校にも紋章を持たない生徒は多く在籍しているが、特段教団から蔑まれたり差別されたりしている様子はない。

ドゥドゥーやペトラ、ツィリルといった外国人も多く、閉鎖的な雰囲気も感じられない。特にツィリルは外国出身で戦争孤児でありながら、大司教レアの従者のような立ち位置である。
これらを見ると、むしろエーデルガルトの言い分とは反対にガルグ=マクこそが「平和で平等なフォドラ」を体現しているとすら言える。なんと皮肉なことだろうか。



(↑もっともな怒り。)

もちろん、セイロス教会が完全に無関係というわけではない。教会自体にそのつもりがなくても、間接的に紋章主義や身分制を権威付けているという解釈もできるだろう。

確かに、紋章や身分が元で不幸になったり振り回されている登場人物は多い。シルヴァンやイングリット、マリアンヌやリシテアらがそれに当たるだろう。
しかしそれは教会というよりも、差別や迫害を行う当人の問題である。法や道徳の観点から地道に変革していくしかない。

そして帝国皇帝であるエーデルガルトにはそれができた立場のはずである。にも関わらず、なぜか彼女は皇帝になるなり教会に宣戦布告してしまうのである。これがどうしても理解できない。

要するに、普通にプレイすると「教会って戦争で潰されなきゃならないぐらい悪いことしてるの?」と思ってしまう。自分も『風花雪月』を初めてプレイしたときはそう思った。

あまりに理不尽な開戦理由なので、初プレイ時は「エーデルガルトは『闇に蠢く者』に脅されて従わざるをえなかった」、あるいは「『闇に蠢く者』を討伐するために、ダミーとして戦争を起こすふりをした」といった事情があるものだと、4ルートクリアしても特にそんな事実は明かされず、エーデルガルトは本気でフォドラを良くするために教会を潰そうとしていたことが明らかになって驚いた記憶がある。


(↑7ルートやってもよくわからない。)

エーデルガルトが本当に「紋章主義や身分差別がない平等な世界」を作りたいなら、やるべきことは戦争などではなく、帝国内の地道な統治である。セイロス教にすべての責任を被せるのはお門違いだ。


『Echoes』の場合―納得できる侵略

『風花雪月』の開戦理由がいかに不可解かは、前作『Echoes』と比べてみればよく分かる。

『Echoes』のストーリーは、実は『風花雪月』と重なる部分が多い
主人公アルムとセリカは戦いの末、「狂った神にすがるのではなく、人が自分の力で生きていくべき」という決断を下し、邪神ドーマを打ち倒す。「神の否定」という主張自体はエーデルガルトと同じである。

違うのは、「神による秩序」が保たれているか崩壊しているかという点である。

『Echoes』では本編開始時点で神竜ミラとドーマの加護はほぼ失われており、特にドーマ教団は信徒の魂を捧げて魔女にするわ、無関係な一般人(デューテ)をさらって洗脳するわと、完全な邪教と化している。
この状態なら、アルムがドーマを討伐するためにリゲル帝国に侵攻するのもやむ無しと、ほとんどのプレイヤーが受け入れるだろう。

一方『風花雪月』では、神=レアはまだまだ正気であり、(多少の問題はあれど)フォドラは安定した秩序を保っている。
もしエーデルガルトの開戦を正当化したければ、セイロス教団をドーマ教団やロプト教団並の邪教として描写しなければならない

(確かにレアも主人公(先生)の出生に関しては大きな負い目があるが、それはあくまでレア個人の問題であり、教団全体の問題とは分けて考えるべきである。)


『封印の剣』の場合―狂っているが筋は通る

無論、悪役の理念をプレイヤーが理解しなければならないわけでもない。
例えば『封印の剣』の悪役ゼフィールは、「世界を竜に明け渡すために人間を滅ぼす」という狂気としか言えない理念を持って戦争を起こすが、これに共感できる人間はほとんどいないだろうし、その必要もない。

しかし、少なくともゼフィールの主張は手段と目的が結びついている。「人間を滅ぼせば→世界を竜に明け渡せる」と、因果関係ははっきりしている。目的はおかしいが、そのための手段の選択は正しい

エーデルガルトは真逆だ。「セイロス教会を潰せば→フォドラが平等になる」は正しい推論とは限らない。目的は正しいが、そのための手段の選択が間違っているのである。


『暁の女神』の場合―全部血の盟約のせい

なぜエーデルガルトはこんな変な理由で戦争を起こしてしまったのか。
これはひとえに、「ファイアーエムブレムというシリーズの長年の課題を解決しようとした結果」だと思っている。すなわち「侵略側の視点で戦争を描く」という課題に取り組んだ結果なのである。

ファイアーエムブレムはSRPGであり、戦争を描いたウォーシミュレーションゲームである。
戦争を題材としたゲームの魅力(という言い方も不謹慎かもしれないが)は、敵が魔物などではなく、同じ人間である点にある。敵は倒しても心が傷まないモンスターではなく、信念があり家族もいる一兵士なのである。

だからこそ、例えば『暗黒竜と光の剣』のカミュや『トラキア776』のラインハルト、『聖魔の光石』のセライナのように、「高潔な信念を持っており、できれば仲間になってもらいたいが、立場上倒さなければならない」相手との戦いにドラマが生まれ、プレイヤーに強い印象を残すのだ。

「敵にも味方も思い入れがあり、本当は戦いたくない」「しかし戦争なので戦わなければならない」……このジレンマを本格的にメインテーマとして深掘りした最初の作品が『暁の女神』だろう。

『暁の女神』では、前作(『蒼炎の軌跡』)で「悪の侵略国」だったデイン王国が敗戦した途端、逆に搾取される側となり、それを救った主人公のミカヤたちもまた、「血の盟約」(※破ると国民が徐々に死んでいく呪い)の脅迫によって意に反する戦いを強いられることになる。

興味深いテーマに挑んだ作品であるが、個人的には十分にテーマを描ききれていないとも感じた。
確かにミカヤとアイク、両主人公が衝突するシーンは印象的だが、カミュらと戦う時のようなジレンマは薄かった。これはおそらく、血の盟約というご都合主義的な設定のせいだろう。

ラインハルトやセライナは信念や忠信に基づいて戦っているが、ミカヤたちは脅迫されて操られているにすぎない。つまり「正義 VS 別の正義」ではなく、「正義 VS 悪(に操られている人)」という勧善懲悪の延長になってしまったのである。


『if』の場合―戦争を起こせなかったマークス

もう一作、『if』とも比較してみよう。
『if』は同じ戦争を「侵略される側(白夜王国)」と「侵略する側(暗夜王国)」の両面から描いているという点で、より『風花雪月』に近い構造になっている。

ただし、『if』でも重要なはずの「戦争の理由」は曖昧にぼかされている
白夜と暗夜の戦争の発端は、主人公カムイの持っていた魔剣ガングレリが爆発し、女王ミコトの命が奪われたことにある。

これは透魔竜ハイドラの狂気に取り憑かれた暗夜王ガロンの策略なのだが、ガロンはそれを否定する(そしてそのまま戦争に突入するのだが、奇妙なことにガロンの主張の真偽がその後言及されることはない)。

つまり、暗夜は白夜に侵攻している立場だが、マークスは信念を持って戦争を起こしているわけではない。ゆえに「悪役」にはならない。マークスたちの行為は、あくまでガロンという絶対悪の犯した罪の結果であるというエクスキューズが得られるのだ。

もし本当に「侵略側から見た戦争」を描こうとするなら、マークスが確固たる信念を持って白夜王国に侵攻しなければならない。
しかし『if』はそれをしなかった。おそらく、味方側のキャラクターを「侵略者」として描くのは(いろんな意味で)マズいと判断したのだろう。

結果的に、ストーリーとしては「狂ったガロンが全部悪い」という身も蓋もない話になってしまったが、少なくとも矛盾はないし、マークスたちの名誉も(一応)守られたというわけである。


『風花雪月』の場合―戦争を起こしてしまったエーデルガルト

ここまで見れば、エーデルガルトが戦争を起こした「本当の理由」がわかるだろう。『風花雪月』は『暁の女神』や『if』でできなかった、「確固たる信念を持って侵略戦争を起こす」主人公を描きたかったのだ。

だが繰り返すように、その試みは失敗している。「教会を潰せば平等な世界になる」という主張があまりに非合理すぎて、開戦の口実にセイロス教をスケープゴートにしているようにしか見えないのだ。

つまり、エーデルガルトを「信念を持った英雄」として描くために、侵略行為に中途半端に正当性を持たせようとしたせいでひずみが生まれているのである。

もしエーデルガルトを普通のラスボスとして描くなら、「闇の力に取り込まれて正気を失って~」といった適当な設定を付ければいい。ファイアーエムブレムのラスボスお約束の設定であり、誰も文句は言わないだろう。

あるいはエーデルガルトを「かわいそうな被害者」として描きたいなら、それこそ「『闇に蠢く者』に脅迫されて~」といった筋書きにすればいい(事実『無双』燐の章の後半ではそれに近い展開になる)

だが『風花雪月』はそのどちらも選ばず、エーデルガルトを「信念に基づいて侵略することを決めた」キャラクターにした。それ自体は非常に意欲的で面白い試みだと思う。それゆえ、「戦争する理由」を慎重に設定してほしかった。



エーデルガルトはゼフィールと違い、一見狂ってはいない。にも関わらず、目的につながるとは思えない戦争を起こしてしまうため、ゼフィールよりよほど狂っているように見えてしまう。皮肉なことだが、結局のところ戦争とは狂人にしか起こせないのかもしれない。


『風花雪月無双』の場合―過半数が侵略者のゲーム

以上のように、エーデルガルトの大義(開戦理由)を受け入れられないプレイヤーは、(自分を含め)一定数いると思われる。

しかし、それでもなお『風花雪月』が概ね好評に受け入れられているのは、全4ルートのうち3ルートでエーデルガルトが敗北するからだろう。

すなわち、「蒼月の章(青獅子ルート)」「翠風の章(金鹿ルート)」「銀雪の章(黒鷲・教会ルート)」ではエーデルガルトは敵となり、最終的には倒される。「教会を潰して平等な世界に」というエーデルガルトの主張は無事否定されるのだ。

一方「紅花の章(黒鷲・帝国ルート)」ではエーデルガルト=侵略側に付くことになるが、「あくまで1/4の裏ルートだから」というエクスキューズ込みで受け入れたという人も少なくないはずだ。

しかし、ここで問題になるのが『無双』である。
『無双』3ルートのうち、「青燐の章(青獅子ルート)」は本編と同じく、主人公は王国に付いて帝国と戦う。これは問題ない。

一方「赤焔の章(黒鷲ルート)」は本編の紅花の章と同じく、帝国に付いて打倒教会を目指すルートである。これも、エーデルガルト側の視点を描くために必要だという意図は理解できる。

問題は「黄燎の章(金鹿ルート)」だ。金鹿編は、本編では教会や王国と協力して帝国と戦う流れだったが、『無双』では逆に帝国に付いて侵略に加担する逆転の展開になっている。



これ自体は面白い試みだと思う。せっかくのスピンオフなのだから、本編とは違った展開にしなければ目新しさがない。
だが問題は、金鹿ルートが帝国に付く展開になったため、全3ルートのうち2ルートが武力侵略を行うヒール側の視点になってしまったことである。

これは明らかにアンバランスである。異様と言ってもいい。1/4なら「侵略者側から見たifストーリー」として受け入れられても、2/3であれば、それはもう単に「侵略者が勝つ話」である。

加えて黄燎の章のクロードの言動も批判されることが多い。これについては詳しく語ると長くなりすぎるので簡潔にまとめるが――個人的にはクロードが帝国に付く展開自体は問題ではないと思っている。

クロードは合理的な人間であり、「戦争を一刻も早く終わらせるために教会を倒す」という主張自体は(本当に戦争が終わるのかどうかはともかく)一応筋が通っている。大国の板挟みに合いながら、目的のために侵略に加担する苦しさとが描かれる展開も悪くないだろう。

問題は、クロードが急にエーデルガルトの主張を鵜呑みにして教会批判を始める点である。



(↑帝国の主張を1秒で鵜呑みにしてしまう自称「猜疑心の塊」。)

作中で最も冷静で合理的なキャラクターのはずのクロードがこんなことを言い出すのは驚きだった。

『無双』のプレイ前は、上記のエーデルガルトの開戦理由にもう少し合理性が与えられるようなフォローを期待していたのだが、実際にはエーデルガルトの主張がより確固たるものとして強化される真逆の結果になってしまったのである。


おわりに―英雄であり悪役であり

長々と書いてきたが、まとめると

  • 『風花雪月』は「エーデルガルトが信念を持って戦争を起こす」物語である。
  • しかしその開戦理由、「セイロス教団を潰してフォドラを平等にする」が理解できない
    • なぜならセイロス教団は紋章主義や身分制に大して影響力を持っていないからである。
  • 『無双』でこの開戦理由がフォローされるかと思いきや、逆にクロードまでエーデルガルトにみたいなことを言い出してしまった。

となる。

繰り返すが、『風花雪月』自体は優れたゲームである。ストーリーに関しても、エーデルガルトは「よくわからない言いがかりを付けて戦争を起こした狂人」だと割り切れば普通に楽しめる(逆に言えば、割り切らないと開戦理由で延々引っかかってしまう)

蒼月の章ラスト、ディミトリに短剣を刺す有名(?)なシーンも印象的で、あれはエーデルガルトというキャラクターでなければ描けないシーンだろう。だからこそ、悪役としても主人公としても中途半端になってしまった点が残念だ。

侵略者でありながら狂人ではない。主人公でありヒロインであり悪役でもある。
あまりに多様な役割を担わされた――まるで彼女が2つの紋章を宿された事実の暗喩のように――結果、何者にもなれなかった存在、それがエーデルガルトなのかもしれない。