2019/10/25

「近道」しない小説―長嶋有全作感想

現代の日本人小説家の中で、自分が一番好き(だった、と過去形になってしまうのだが)な長嶋有の全小説の感想。
タイトルの後のアルファベットは、個人的な評価。(A=傑作、B=まずまず、C=イマイチ)

猛スピードで母は A


サイドカーに犬

長嶋有の作品群のトップを飾るだけあって、質が高い傑作中編。無駄のない切り詰められた文章で、小学四年生の女子だった「私」が感じた繊細な機微を、見事に掬い取っている。
 洋子さんは車道の真ん中を歩いた。月夜に照らされる洋子さんはとても綺麗だった。洋子さんは左右に揺れるように歩きながら、私も聞いたことのある「プレイバックパート2」を歌った。歌詞は、印象的な出だしの部分以外はうろ覚えで、きちんと歌えるのは「ハンドルきるの」とか「ミラーこすったと」という、凄みをきかせる部分だけだった。
「サイドカーに犬」文春文庫、31頁
洋子さんは「うろ覚え」で曲を歌う。普通、小説ではこのようなシーンは、書かれない。歌は、ちゃんと歌えるか歌えないか、どちらかだ。そうでないと、話が締まらないからだ。

しかし長嶋有の小説は、そのどちらでもない「うろ覚え」の人間を描く。なぜなら、現実というのは、そういうものだからだ。
普通の小説では省略されてしまう細部、他人に話すほどのことでもないと思って、消えてしまうようなささやかな感情。そういった「部分」の集合体で、長嶋有の小説はできている。

猛スピードで母は

「サイドカーに犬」と同じく、小学生の心理を描いた作品。
しかし「サイドカー」が「母のいない夏休み」であるのに対し、こちらは「母と共の日常」。また作風も、一時の自由を堪能する「サイドカー」に対して、「猛スピード」は曇天の日々がいつまでも続いていくという印象であり、対照的である。

シングルマザーの「母」は、独自の流儀(と言うと頑強すぎて事実に即していない気もさせられるが)を持ち、たくましく主人公「慎」を育てていくが、決してわかりやすい「超人」ではなく、時にはもろく、不安定になることもある。

淡々とした文章は、決して母のキャラクター性や慎の心理を「説明」しない。ただ「描写」する。母のありのままの姿を、慎は見て、何かを感じ、少しずつ成長していく。そして、そんな慎を見て、読者はまた何かを感じるのである。


タンノイのエジンバラ B


タンノイのエジンバラ 

失職中の「俺」が、アパートの隣の部屋の娘を一日預かる。2人のささやかな交流を描いた短編。

ただそれだけの話なのに面白いのは、男と娘の瀬奈、2人の関係が極めて繊細に描かれているからだろう。小説として「わかりやすく」するための誤魔化しがない。お互いが、初対面の相手と同じ時間を過ごさなければならないとなった時、どう動き、どういうセリフを放つか、言葉の一つ一つが慎重に選びぬかれている。

このような関係を描けるのは、やはり瀬奈が「子供」だからだろう。大人同士だとこうは行かない。どうしても、社会的な関係や遠慮、建前に影響されてしまう。
しかし「俺」と瀬奈は、いかなる外部の要因にも影響されず、一対の人間同士として同じ時間を過ごし、交流する。長嶋有の作品は、そういう稀有な瞬間を切り取って見せてくれる。

夜のあぐら

「土地の権利書を盗むために、かつての実家に忍び込む」という、長嶋有作品としては比較的「派手」な展開が中心となっているが、この話のキモは「私」と家族との距離感だろう。

前述したとおり、人は大抵の場合、他の人と接する時は様々な世間体や思惑に支配され、思うがままの素直な行動が取れない。本作で言えば、父の再婚相手の「ミドリさん」とのやり取りは、お互い「遠慮」でがんじがらめになっているが、オトナ同士のやり取りというのはたいていはこういうものである。

しかし、そうでない関係もある。本作で描かれる長嶋有的関係は「きょうだい」である。
例えば「弟」(20代中盤)は、いい年をして一度も働いたことがなく、父(元社長で割と裕福)からの仕送りで悠々自適な生活をしている。
「私」は弟の「監視員」としてよく顔を合わせているが、別に弟に説教したり、呆れたり、反対に応援したりはしない。「私」ときょうだいの関係には「働かなければならない」という「世間の常識」が介入しないのだ。
あくまで「私」は弟に、姉弟として、更には一人の人間同士として接する。馴れ馴れしすぎず、よそよそしすぎない。この絶妙な距離感が長嶋有作品の醍醐味だ。

だから、途中で弟が「私」の部屋に居座るようになると、「私」は弟を急に拒絶する。「働きもしないで、人の家で何やってるの」と、「今更」な「常識」を口にしてしまう。近づきすぎないのがこの姉弟の距離感であり、人間の距離感であると「私」は思っているからだ。

なんでも「分かった分かった」で済ませてしまう父や、家への思い入れの果てに本気で空き巣をしてしまう姉など、他の家族も魅力的。地味ながら、奥が深い短編である。

バルセロナの印象

長嶋有の小説に出てくる夫婦は、たいてい離婚しているか離婚しかけているが、本作の主人公夫婦は珍しく(おそらく)仲が円満である。
それゆえか、全体的に緊張感が薄い。単なる紀行文という「印象」である。

三十歳

ピアノ講師だったが、既婚者の生徒との不倫がきっかけで仕事を辞め、今は「正反対」なパチンコ屋のバイトをしている「秋子」が主人公。

この短編集に限らず初期の長嶋有作品は、主人公がモラトリアムの状態であることが多い。秋子も、パチンコ屋の仕事は明らかに「仮の居場所」と割り切っているが、それゆえの気楽さと将来への不安、一人で仕事場と家を往復するだけの孤独な日々の雰囲気が丁寧に描かれている。

ただ、個人的には、バイト先の同僚「安藤」との紋切り型といっていい恋愛(それゆえのリアル感はあるのだが)は、読んでいて少し間が抜けている。
もっとも、この紋切り型の恋愛描写は最終的に「安藤はバイトの別の女の子にも手を出してる元ホストのジゴロだった」というオチによって相対化されはするのだが。


ジャージの二人 B


避暑地の山荘で、会社を辞めた「僕」が、父と共に過ごす日々を描いた作品。

「成人した子」と「離婚した父」の関係は、「サイドカーに犬」「夜のあぐら」を始め、長嶋有作品でよく出てくるモチーフだ。
ただし本作の場合、両者の関係は至ってニュートラルで、ほとんど緊張感が無い。決して「友達」ではないが、リラックスした空気だ。
あらすじを追うのではなく、自分もこの山荘に来てしばしの避暑を味わっている……という擬似休暇として読むべき一冊である。

一方で本作の「緊張」を担うのは、主人公とその妻の関係。妻は別の男と不倫関係にあり、「僕」もそれを把握している。結婚関係は破綻しているが、かと言って仮面夫婦というわけでもなく、時には普通に会話するあたりがリアルだ(経験があるわけではないが)

父子の穏やかな関係と比べると、夫婦間は極めて複雑な緊張関係にあるが、それを描く手付きが良くも悪くも激しく、「山荘の穏やかな日常」とのギャップになっている。初期作品らしいアンバランスさとも言えるだろう。


パラレル B


フリーのゲームクリエイターである「僕」、ベンチャー企業の社長で大学時代からの友人の「津田」、そして「僕」と離婚した元妻。現代の都市に生きる人々の「パラレル」に続く日々を描く。

『ジャージの二人』の対になるような作品である。
「妻との不仲」という要素は共通している(というかこっちの主人公はもう離婚してるけど)ものの、「いい年してジャージ姿の男2人」が山荘で淡々と日々を過ごす『ジャージの二人』に対し、騒がしく無為なキャバクラでの会話や、女に対してギラギラしている津田&主人公は、「都会のオトナの生活」の(長嶋有流の)カリカチュアである。

もっとも、あくまで「個人的な感想」なのだが、自分はこの作品の「津田」にいまいちリアリティを感じない。
津田だけでなく主人公もそうなのだが、どうも作者が無理して書いてる感じが否めないのである。そういう気取ってみせる態度や背伸びした見栄も、「都会のオトナ」らしさということだろうか。


泣かない女はいない A


泣かない女はいない

埼玉郊外の物流倉庫に、「シャトル」に乗って通勤する睦美。働くアラサー女性の静かな日々と屈託を描いた作品であり、「三十歳」の同工異曲だが、作品としての完成度は遥かに上がっている。

極めて抑制された文体と、「書かない」ことで空白を作り読者に想像させる手腕は相変わらず――睦美は同じ職場の倉庫で働く樋川さんという男性に惹かれていき、その結果、同棲していた恋人との関係も潰れてしまうのだが、ラストに至るまで、睦美と樋川さんは手さえ繋がないどころか、同僚としての当たり障りのない会話をいくつか交わすだけである! にもかかわらず、睦美が樋川さんに惹かれる理由と、その感情の強さが読者には伝わる。――だが、本作で最も印象的なのは、中盤にある雪の日にフォークリフトに乗るシーンである。

睦美と高村さんが倉庫でフォークリフトに乗り、後藤くんが指導する。樋川さんがお茶を飲みながら椅子に座ってそれを眺めている。天窓から入る冬の日差しが、2階の金網を通すことで、斑状に睦美に降りかかる。
 まるで荘厳な教会にいるかのような神秘性のある、極めて美しいシーンだ。もちろん、よくよく考えてみれば、やってることは「埼玉の田舎の倉庫でフォークリフトに乗ってる」だけである。しかし、何気ない日常にも、時としてこのように素晴らしく印象的な出来事が起こることがある。小説というのはそれを切り取るものであり、この作品はそれができている。

センスなし

おそらく史上初の「聖飢魔II小説」。
静かな冬の一日を舞台に、「好きなミュージシャン」が何よりも大事なアイデンティティだった学生時代を回想する。しかし、夫婦の不和(だけ)をストーリーの緊張感とするのは、やや食傷気味である。


夕子ちゃんの近道 A


客観的に見ても個人的に見ても、長嶋有の最高傑作だろう。初期の「モラトリアム状態の青年」を主人公にした作品群の総決算である。

流行らない古道具屋「フラココ屋」の二階に住み込んでバイトをする「僕」が、古道具屋の主人や常連客、店の大家やその娘たちとささやかな交流をする日々が描かれる。

本作がこれまでの長編『ジャージの二人』や『パラレル』と異なるのは、主人公と周囲の関係である。
『ジャージの二人』は「父と息子(籍は抜けているが)」、『パラレル』は「学生時代からの友人」であり、共に物語開始時点から関係が固定されており、物語終了後も同じ関係であり続ける

だがこの『夕子ちゃんの近道』では、「僕」がフラココ屋にやってきた(一週間後)ところから始まり、「僕」がフラココ屋から去る場面で終わる(ただし単行本化において加筆されたエピローグ「パリの全員」では再会している。これは「意図的な蛇足」だろう)
本来は交わるはずのない人々が、フラココ屋という場所を通じて関わり、初対面から少しずつ近づいていく。しかしやがてモラトリアムは終わりを告げ、別れが訪れる。人と人との関わりの一生がこの小説には詰め込まれており、それがこれまでの長編とは異なるダイナミズムになっている。

この小説は7章構成だが、白眉はやはり表題にもなっている「夕子ちゃんの近道」だろう。
店長に命じられて、フラココ屋から店長の実家にちゃぶ台を持っていく「僕」。その帰り道、駅で「夕子ちゃん」と会い、夜道を一緒に歩いて帰ることになる。

夕子ちゃんは定時制高校に通う女子高生だが、「僕」とはさほど親しいわけではない。なおかつ、読者にとってはここが夕子ちゃんと「出会う」(夕子ちゃんが描写される)最初のシーンで、それゆえ、巧みに選びぬかれたセリフやちょっとした仕草から、夕子ちゃんという女の子がどんな人間なのかが、じんわりと伝わってくる。この機微が素晴らしい。
 この小説は決して夕子ちゃんという人間を「説明」しないし、「僕」も分かったような言葉で「○○な子だ」とまとめない。「まとめ」ることができない所にこそ、人間の機微があるのだ。

夕子ちゃんは家に帰るために、空き地や竹藪を通り壁をよじ登り、大胆に「近道」していく。「僕」(と読者)は、そんな夕子ちゃんの姿(と、自分がそんな夕子ちゃんと一緒に歩いているということ)に、何かを感じ入る。
夕子ちゃんがしているのは「近道」だが、それを描くのは「近道」ではない。むしろ「遠回り」である。

この場面で起こっているのは、単に「僕」と夕子ちゃんが駅から店に帰っているだけであり、大きな事件も重要な会話も起こらない。普通の小説なら「近道」して省略されてしまうようなシーンである。
しかし、長嶋有の小説は、そんな「帰り道」を省略せずに描く。人生における印象的で大切な瞬間というのは、大きな事件の瞬間よりも、このような日常のさり気ない一瞬にこそ詰まっていると、『夕子ちゃんの近道』を読むといつも感じるのである。


エロマンガ島の三人 長嶋有異色作品集 B


この短編集の作品に共通して言えることだが、単体の作品として見るよりも、「補遺」で語られているように、それが掲載された媒体やコンセプトも含めて「楽しむ」のが正解だろう。

「エロマンガ島の三人」は『ファミ通』の編集長の実話を元に、姉妹誌の「オトナファミ」に連載された。『ファミ通』の文化が小説という舞台でこれほどまでに描かれたことは(当たり前だが)空前絶後だろう。『ファミ通』を語っている小説、というだけで面白い。
もちろん、一本の短編としてみてもチャーミングだ。全体的にコミカルな雰囲気で、太ったオタクの久保田の三枚目っぷりや、南の島で出会う5人姉妹の少女の造形は「ゲーム」のような楽しさと明るさがある。

「女神の石」は、人類崩壊後に廃墟となった世界に生きる若者……という「長嶋有らしくない」SF設定でありながら、そこで描かれるのは「屋根のないトイレは落ち着かない」という所帯じみた人間の心理だったり、「ナシヨナル」「ヘンケル」といった固有名詞だったりと、極めて「長嶋有的」に書き換えられている。
普段馴染みのないジャンルだからこそ、作者の作風が色濃く出ている。長嶋有のファンタジーものやミステリーものなども読んでみたい。

「ケージ、アンプル、箱」も、たぶん「官能小説を依頼された→自分の小説で官能といえば津田だろう」という感じで「思わず」書かれたスピンオフ作品、という印象を受ける。本編でははっきりとは出てこなかった(はず)の「パラレル」というタイトルが、この小品ではじめて登場するあたりが良い。

「青色LED」は「エロマンガ~」で登場した謎の男・日置が、実は殺人の罪を犯した逃亡犯であった、という衝撃の事実が明かされる「種明かし」。
補遺によれば、「エロマンガ~」を連載していたときは、日置のはっきりした設定は無かったらしく、これは「後付設定」なわけだが、とてもそうは思えないぐらいピッタリとハマっている。
「エロマンガ~」を単行本としてまとめる際に、「思わぬ」形で書かれた日置の真相が、「エロマンガ~」を事後的に「完結」させた。これ自体が、なんだか長嶋有の小説的である。

「青色LED」を読んでから再び「エロマンガ~」を読むと、また違った趣がある。南の島の楽しい雰囲気や、エロマンガ島でエロマンガを読むという脳天気な筋書き、作中に散りばめられるテレビゲームといった「明るさ」が切ない。
両者は断絶している。短編としても分離しているし、作中でも10年の時間が経っているし、なにより単行本の中で最初と最後の話、という点でも物理的に「離れて」いる。この距離が、日本とエロマンガ島の距離に重なる。


ぼくは落ち着きがない A


長嶋有がはじめてティーンエイジャーをメインに描いた「学園もの」。
高校の図書室の一角を曲がりしている「図書部」の部室を舞台に、部員たちのやりとりや日常を描く。

この設定は、本作が連載されていた頃に興隆した、『涼宮ハルヒ』シリーズ(SOS団)を嚆矢とする「部活もの」ライトノベルとよく似ている。活動実態がよくわからない部活動に主人公が強引に入れられ、様々なタイプのヒロインに振り回される……というアレである(もっとも2019年現在では、この手のライトノベルの流行りはすでに過ぎているようだが)

『ぼくは落ち着きがない』は、言ってみれば、この手のライトノベルの設定を、(長嶋有流の)リアリズムで書くとどうなるか、という実験である。結果としては、とても面白い。

もちろん、この「図書部」にはツンデレな美少女はいないし、不思議な事件が巻き起こったりはしない。描かれるのは、至って地味で所帯じみた出来事や会話である。しかし、それが面白い。
結局の所、現実は、ライトノベルような「理想」が詰まった日々ではない。しかしかといって、つまらないわけでもない。なぜなら、冴えない「図書部」の日常を切り取っただけのこの小説が、こんなに面白いのだから、と思わせてくれる。


ねたあとに A


避暑地の山荘で過ごす作家の男とその父……という設定は『ジャージの二人』と同じだが、続編というわけではない。ちょっとしたパラレルワールドのような関係である。

注目すべきは、主人公のコモローが「(そこそこ売れてる)作家」であること。『ジャージの二人』の主人公は「作家志望者」だったので、ここにそのまま作者の立場が投影されている。
すなわち、『ジャージの二人』のころは駆け出しの作家だった長嶋有が、『ねたあとに』では様々な文学賞を受賞し、作家としての地位を固めた「あと」である、ということ。

これはそのまま作風に影響していて、『ジャージの二人』では、主人公は山荘で休暇を過ごしながらも、自分の先行きは不透明だし、妻との関係も不安定だし、と(自分の人生に対する)緊張感を常に持っているのだが、『ねたあとに』ではコモローにその手の緊張感は見受けられない(だから、コモローではないキャラクターが視点人物になっている)。

緊張感のくびきから解き放たれた長嶋有の筆致は、これまでにもまして軽快だ。
新聞連載ということもあってか、これまで以上に様々な固有名詞のオンパレード。同時代に生きている日本人でなければ、登場人物たちが語っていることの内容はほとんどわからないだろう。
しかし、それでも良い、と思わされる。なぜなら、会話というのはそういうものだからだ。ただ話、奇妙なゲームをしている人々を描くだけで「小説」にしてみせた、長嶋有の到達点。この小説を、同時代に同じ文化を共有する人間として読めたことが嬉しい。


祝福 B


短めの作品10編が収録された短編集。書かれた時期はバラバラで、デビュー当初の2003年から2010年まで幅広い。

読む人によって、好きな作品が分かれる短編集でもあるだろう。
単体の小説としてみた場合は、太宰治「女生徒」の如き意識の流れを書いた「丹下」や、印象的な情景のラストシーンが白眉な「十時間」の完成度が高く見える。
しかし個人的には、男子大学生2人の無為な日常を切り取った「山根と六郎」や、元男子大学生2人の無為な日常を切り取った「海の男」の圧倒的リアリティに感じ入る。


佐渡の三人 A


いい年してまったく働かないが飄々としている弟と、父、そして主人公。「夜のあぐら」の「弟」をリライトしたかのような、長嶋有家族小説の総決算的一冊。

とにかく「弟」のキャラクターが面白い。世間一般には「ニート」や「引き篭もり」のイメージは、「暗い」「社交性がない」「内向的」というものだが、この「弟」はそういったステレオタイプなイメージとは全く無縁に、自由である。


問いのない答え C


個人的には、長嶋有のターニングポイントだと思っている。どちらかといえば「悪い意味」で、なのだが……。

もちろん、作風自体はこれまでと変わっていない。作家が主催するTwitter上の「それはなんでしょう」というゲームで繋がっている人々の日常が、東日本大震災後の社会状況とともに描かれる。

しかし、長嶋有の小説を小説足らしめているのは、作品の根底に流れる「感情」である。例えば「泣かない女はいない」であれば、「郊外の職場に通う女性の寂しさ」であり、『ねたあとに』であれば、「仲間内で夜中まで遊ぶワクワク感」である。こういった、日々の根底にあるエモーションを切り取るからこそ、長嶋有の小説は小説として魅力的なのだ。

だが、この『問いのない答え』には、そういったエモーションが無い。少なくとも、自分には感じ取れない。
これは自分が東日本大震災の影響を受けなかった地域に住んでいたからかもしれない。しかし個人的な事情を抜きにしても、この作品以降、長嶋有の作品からはある種の緊張感がプッツリと無くなってしまったように感じてしまう。


愛のようだ C


作者の盟友、フジモトマサル氏の死去を受けて書かれた作品。中年のオジサンたちがひたすらドライブする話。
しかし、これも作品全体に一貫する「雰囲気」を感じ取れなかった。やはり作者≒主人公が「先の見えない若者」ではなく「落ち着いたオジサン」になってしまったゆえの緊張感の薄さが原因だろうか。


三の隣は五号室 C


藤岡荘という木造アパートの5号室に住む人々を、時代を超えてバラバラに描くという形式。
この手の群像劇の醍醐味である、登場人物同士のリンクは、あることはあるのだが、さほど多くはない。
作者のケレン味の無さが、良くない方向に出てしまっている気がする。本当に単なる生活スケッチでとどまってしまっている。あと、全体的に(アパートの電球の頼り無さを反映するかのように)雰囲気が暗い。


もう生まれたくない C


2011~2014年を舞台に、色々な「死んだ」有名人の話を聞いて登場人物があれこれ感慨を抱く話。
「ジョブズの死」をテーマに小説を書く作家は長嶋有ぐらいだろうし、そういった目の付け所は流石だが、やはりそれだけという印象。


私に付け足されるもの C 


女性を主人公にした10編の短編集。
物語としての「感情」の無さには拍車がかかり、とにかく登場人物はみんな老境の域であるかのごとく、覇気が無い。人生のすべてを諦めたかのように、目の前に流れる景色をただ見ているという感じ。
 それよりもっと別のなにかが「そろそろなんじゃないか」という気がする。
というのは「サイドカーに犬」の最後の一文だが、この言葉は長嶋有という作家にも当てはまる気がする。「そろそろ」新たな作風へと変化した長嶋有の小説を読みたいと思う。